仏教徒じゃないぼくが浄土真宗に惹かれる理由、あと疑問に思うこと
ぼくは特定の宗教を信じていません。でも仏教、特に浄土真宗の考え方に共感をもっています。真宗の本を何冊も読むと、なるほど深いとよく思います。
他方で、完全に納得もできず「えぇそうなの?」と疑問に思うこともあります。強い共感とどうしようもない疑問がごちゃ混ぜになって、今日まで「もっと仏教を知りたい」と学びつづけています。
この混乱すべてを1つの記事で書けるはずもありませんので、ある真宗の和尚さんの法話をピックアップして、共感した点と問題点を書きたいと思います。1年半、細々と書いてきたぼくの問題意識の中心的な話になります。
◆浄土真宗とはなにか
改めて説明するまでもありませんが、浄土真宗は余計なことせず南無阿弥陀仏を唱えれば充分という宗派です。なんだそれだけかと見くびってはいけません。難解な理屈を振り回さず念仏をするだけで充分と腰を下ろすところに真宗の凄みがあります。この凄みを知れば、念仏なんて年寄りが仏壇でするまじない的な偏見から否応なしに離れます。
真宗の開祖親鸞が念仏だけで充分と信じるに至った流れを少しだけおさらいします。
真宗に限らず浄土教全体で重視する3大お経に『無量寿経』があります。(残り2つは『観無量寿経』と『阿弥陀経』)。このお経のなかに阿弥陀仏がぼくたちを救う「ストーリー」が書かれています。
なんでも阿弥陀仏が修行中のころ、「すべての生命を救わなければ悟りを得ない!」と途方もない誓いをたてました。自分1人の救済だけでも大変なのに生きとし生けるものすべて救ってやると啖呵切ったわけですね。そして気の遠くなる時を超えて、修行者は悟り、阿弥陀仏となったそうな。
親鸞のお師匠さん法然は『選択本願念仏集』で阿弥陀仏のストーリーをさらにすすめて、「あのとき誓いを立てた修行者が阿弥陀仏になっているということは、すべての命を救う願いは叶っており、ぼくらは阿弥陀仏に絶対救われる」と説きます。
この法然の教えを受けて親鸞は念仏をするだけで充分と考えたのでした。
◆瓜生さんの法話の要点
真宗大谷派に瓜生崇さん(以後敬称略)という和尚さんがいます。YouTubeで法話をいくつもあげています。この人の法話は比較的抹香臭くなく、自派を疑い批判的に語るため好きです。いままで数十個の動画を観ました。自分でも観すぎかなと思ってます。
ぼくが聞く限り、瓜生の法話の内容は以下の9点にまとめられます。
納得できるものは、①③④⑤⑥⑦⑧ です。
納得できないものは、②⑨ です。
⑨はお経のストーリーなんで信じられませんが、ぼくには瓜生の法話が概ね納得できます。9つの問いで共通して批判されているのは「俺が、俺が」の自意識です。順を追ってみてきましょう。
①「俺が悟った!」と叫ぶこと。⑦「俺が念仏したから阿弥陀様は救ってくださる」と考えること。③「あいつではなくて俺が救われる」と物事を分別(差別)すること。こうした自意識は⑧阿弥陀の前にはしょうもないおごりです。
そして問題なのは、このおごりは誰もが心に大事に大事に持っているものだということです。④道端のミミズと家族の命を同じだけ価値あるものとみなすことなんてできないし、そんなことしたら生きていけない。虫を踏んづけて殺しちゃったからといって親殺しをしてしまったように悲しんでいては生活なんてできない。
だからぼくらはみんな煩悩のなかでしか生きられません。虫は殺してもいいけど、親は殺してはいけないと命を区別しなければならない。⑨阿弥陀仏はそんな愚かなぼくらをまとめて救ってくださるそうです。賛成するかは別としてここには一貫した論理があります。
しかし分割して考えてみると、②と⑨は対極のことを言っています。どういうことか。お経だって浄土からFAXで送られてきたんじゃありません。人が書きました。②を取るとお経が勝手な妄想で書かれたことになり、⑨のストーリーは嘘になる。⑨の阿弥陀の誓いを信じれば②は捨てざるを得ません。
そもそも仏教はじめた釈迦だって勝手に悟ったと思っただけと言われれば「科学的な」反論はできないでしょう。でも誰も釈迦の悟りが勘違いだったなんて言いません。釈迦も、お経の名もなき作者も、巨大な自然と接触して、それをなんとか言葉で説明しようとした。この苦心こそが仏教のはずです。
冒頭に書いた『無量寿経』だって信仰のない人間が読めば、退屈な馬鹿話です。けどこの話を必要とした人がおり、こう話すよりしかたのない体験をした人がいたと想像したら興味深く読めます。
あらゆるものは疑わしいとする②は典型的な懐疑論であり、真宗門徒でありながら『無量寿経』を比喩としても否定してしまっています。確かにある体験を絶対視して「この体験を得るために100万円よこせ」なんていうのは眉唾です。けれどもぼくの外側にあるなにかの接触すべてを否定すると宗教はなりたちません。
◆現代のまじめな宗教者はなぜ懐疑的なのか
ぼくらは、こっちの体験が真理で、そっちの体験は偽りだと判断できるのでしょうか。無理でしょう。体験は個人的なもので実験室では検証できません。真の体験と偽の体験の判断について、ぼくらには沈黙しかできないのです。
そしてだからこそ阿弥陀を信じるのでしょう。人間は体験の善悪も判断できなければ、すべての体験が幻想であると断じることもできない不完全な存在です。ぼくらにできることは真偽の判断ではなく、祈りだけです。
あれもこれもできるけど念仏を選んだのではない。念仏しかできないから念仏を唱えるんだ。この切ない断念、諦めが真宗の核にあるように思えます。
ではなぜ瓜生は①で留まらず、②を語らざるをえなかったのでしょうか。つまりあらゆる体験を否定せざるを得なかったのでしょうか。
彼は真宗の僧であると同時にカルト教団の脱会支援者だったのです。そのため特に旧オウム真理教について詳しく学んでいました。
オウムは厳しい修行生活をするなかで起こる体験をすばらしいものと考えていました。ある体験が起こるとそれを麻原に報告する。すると麻原はその体験の意味を伝える。弟子はそうしてより厳しい修行をして、よりすばらしい体験を求める。このトップダウンの制度が行きつく先はご存知の通りです。
宗教者として、オウムの教義を間違いとして、真宗の教義を正しいと判断するためには、実証的(科学的)な批判で誰にでもわかるようにオウムの間違いを証明しなければいけなかった。そのなかで証明不可能な体験をすべて否定するようになったのだと思えます。ここにぼくは真宗とオウムに限らない宗教全体の問題が潜んでいると考えます。
「オウムは人を殺した!」と言うかもしれません。真宗だって昔何人も殺しています。「でも、オウムは新興宗教だからダメだ!」。真宗だって鎌倉時代、新興宗教として弾圧されています。「でも、麻原は経典の解釈をねじ曲げた!」。親鸞だって経典をかなり無理な読み方で解釈しています。
こうして考えると、少なくとも真宗の立場から、こっちの宗教が正しくて、あっちの宗教が間違えているとは言えなくなります。瓜生の現時点での結論は人間の判断力すべてをあてにならないものと捨て去ると同時に、あらゆる体験は嘘っぱちと考えるようになりました。
◆最後に
瓜生さんの法話を中心に真宗について考えていきました。
瓜生さんは、「有り難い教え」を連呼して教義を疑おうともしない生臭坊主に比べて、誠実で真面目な和尚さんだと思います。彼の法話を聴いてぼくの浄土真宗観と問題点もクリアになりました。しかしカント風に「独断のまどろみから脱したが懐疑論に座礁した」と言いたくなります。
素直にいって瓜生さんの法話を聴いて、真宗に共感はもてても、真宗の門徒になろうとは思いません。なぜなら真宗であろうがなかろうが阿弥陀なるものは救ってくださるそうだからです。瓜生さんは真宗を学ぶことで人として成長することも否定しています。真宗に出会って成長したというのも「勝手に思っているだけ」と一蹴しています。
ぼくは瓜生さんがひとの成長を軽視している点で対立します。たとえどんなにひとが不完全だとしても成長することはできる。そう信じています。ここでの「成長」とは現代の進歩主義とはまったく別の話です。60点の人間が宗教に出会って80点になったという発想はカルト的です。そうではなくて、自暴自棄だった人が生きる意味を探すようになるとか、他人を道具とみていた人が他人を理解しようと思うとか、これを成長と呼んでもいいはずだ。
親鸞の教えがあるから生きていける人がいるだろうし、真宗を学んで人格的に磨かれていった人も何人といるでしょう。瓜生さんは「そんなもの極限状態になったら霧散する儚いものだ」と反論するでしょう。でもぼくはここに賭けるからこそ、すなわち哲学宗教がひとを豊かにする力があると信じるからこそ、学んでいるのです。
気づいたら普段の倍以上書いてしまいました。まとまりがつかずすみません。最後まで読んでくれた奇特な読者さんありがとうございました。
ちなみに『ダヴィンチコード』で「聖書は天国からFAXで送られたんじゃない」という台詞があり、好きな表現なので途中パクリました。