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ものわかりの悪い人間が「ものわかりのいい人」をやめることにした

もともと、ものわかりの悪い人間が「ものわかりのいい人をやめることにした」と書くのは、無資格の「非弁行為」を犯すようなもの。だが、私はこの「早弁行為」いや、、「非弁行為」を犯すことになる。

少なくとも、私にはものわかりがいい方ではない自覚がある。まずは奥様(敬称)に対してだ。「酒の飲み過ぎだから控えなさい」「たまには自分の周りくらい片づけなさい」と言われても、私はただ酒が得意で、片付けが苦手なだけとしか言いようがない。

「少しは運動したほうがいい」と親切に言ってくれる友人もいたが、実行できたためしがない。それにこんなこともある。友人同士で会話をしている最中、いつの間にかボーっとしていて話が抜け落ちてわからなくなる。そういえば、仕事でもストレートに「わかってますか?」と聞かれることもあった。

子供のころは、言われたことをよく聞くものわかりがいい子だったに違いないはずだが、私には本当に、ものわかりがいいところがなくなってしまったのだろうか?このままでは「非弁行為」は免れない。

それなら、ものわかりがいいところをでっちあげればいいだけのことだ。「捏造行為」をすれば「非弁行為」にはならない。これですべてが丸く収まる。

まずは「偉そうなのが鼻につくから100社も落とされるのだ」との友人のアドバイスを素直に聞き入れよう。年を取れば、気力も体力も記憶力も柔軟力も空気を読む力も衰えるのも仕方ない。主治医に「余命三ヶ月です」と言われたら、わかりましたと素直に受け入れよう。

これで私も、ものわかりのいい人の仲間入りだ。

友人のアドバイスも医者のいうことも間違っていないのかもしれない。確かに、人には能力の限界がある。

いや、でもきっと違う。

101社目に受かる自分に変われるかもしれない。衰えていく力を補う術もあるかもしれない。余命宣告を受けてから、ずっと長生きをする人もたくさんいる。

ともあれ、ものわかりのいい人は常識人だと思う。逆に、私みたいに人の言うことがよく聞けない人間は常識に欠けている。その私が、能力の限界に対しては、なぜだかものわかりのいい人間なのだ。このことは、年を取って、受験にチャレンジしてみて、記憶力が低下している現実を突きつけられて、自分の能力の限界を実感しているから「虚偽」ではない。

先日、知の巨人と言われたノンフィクション作家の立花隆さんの言葉を「読む力・聴く力」(河合隼雄先生と谷川俊太郎さんとの共著)という岩波現代文庫の本で読んだ。

たいていの知的生産であれば、I/O比(インプットとアウトプットの比率)は少なくとも100以上ないといけない。平凡な内容の本であっても、少なくとも100冊以上本を読んで、一冊の本が書ける。

筆者要約

立花隆さんのこの言葉を読んですごいなと思ったが、実際は、1000冊の本をインプットして、一冊の本を書き上げることを自分の基準に置いていたようだ。また、立花さんは「原稿の締め切りに追われ、どうあがいても駄目だと、本を読む時間がないことがわかっていても、プレッシャーがあると必ずできる。明日の試験に出る参考書があれば、死に物狂いで読むのと同じだ」と、”読むことと脳”という章のなかで言っていた。

確かに、脳の処理能力には限界はある。脳に関する多数の著作を世に出した立花隆さんである。脳の処理能力に限界があることは百も承知であったはずだ。しかし、眠って使われていない脳の潜在能力の存在についてもその「実体」を手に取るように承知していたに違いない。

だから、脳の潜在能力をプレッシャーと死に物狂いの集中力で呼び覚まし、読めるはずのない大量の本を読み切って、執筆活動を続けていたのだろう。これは速読術と言えるような単純な方法論ではなく、脳の活性化のための精神論だ。

今の私には今さら、速読術のような方法論を習得する力や実践力を養う若さはないし、ものわかりの悪い人間のままだ。しかし、立花さんが言う精神論には共感を覚えたので、受け入れ考えを改めてみようと思う。こと能力の限界については、ものわかりのいい人をやめることにした。

だからといって、精神論ゆえに実践と行動がともなわない、ただの思いつきでしかない。はたして、私に「非弁行為」に対するところの「情状酌量の余地」はあるのだろうか。

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林海平
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