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「あるがままにある」は、理解ではなく観じるものだ。

あたしが常々思ってることなのですが、「お経」とは、メッセージソングなのではないかということです。

 「経」とは、意味をたどれば「至る道筋」という意味です。よく「読経」とか「写経」とかいいますが、たとえば法華経などは「この経を踊しなさい」といった意味のことが述べられています。

 つまりはうたったりパフォーマンスしたりして、この「道筋」を表現することによって、自らも観じ、そして人々に伝えるが良い。という意味合いにも取られます。

 確かに、旋律に乗せた「詞」は理由とかじゃなく、感覚的に自分の心に入ってきます。
すなわち、こういった「智慧」というものは、四の五のアタマでこねくり回すのではなく、「体感」するものなのではないのか。ということなのです。

 歌や音楽とは不思議なものです。その調べは確かに言葉では表現しきれない。また、絵画もしかりです。
 
 言葉や文字では、感じ取ることができない。そんな境地があってしかるものなのです。文芸でも、「説明」ではなく、「感じさせる」うたという分野があります。これは短歌や俳句、散文詩もしかりです。なまじっか「説明」しない方がいい場合があるわけです。

 即説咒曰そくせつしゅわつ 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい  波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼじそわか 般若心経はんにゃしんぎょう
 すなわち、その観じる言を述べよう。行くのだ、行くのだ、真理を目指すのだ皆ともに行くのだ、そして皆で真理の目覚めの境地に行くのだ。智慧の肝心の道はこれである般若心経

般若心経 

 この一節は「不翻訳すな」であるとされます。つまり、漢訳せずありのままの梵語をあえて音に当てはめているわけです。
 よくロックでサビが英語で締めくくられますが、あれと同じ感覚ではないかということです。

 つまり、締めくくりは「観じる」ことなんだということです。「智慧」とは、理解するものではなく、体感することなのでしょう。

 しかし、これに至るには具体的な「心がけ」が必要であり、これらを意図しなくとも自然に行えるようになって、いつの間にかその境地になるのだということが「六波羅蜜6つの智慧の心がけ」といわれるものです。

この章の結びとして、この六波羅蜜ろくはらみつをざっくりとご紹介します。

1 布施波羅密ふせはらみつ

ものや行い、心を他に施して心の安らぎを得る。
金品を施す財施。教えや智慧を説く法施。笑顔や人に優しく接し和ませる顔施。

2 持戒波羅密じかいはらみつ

人として行ってはならない戒めを守り、欲を制し、心身を清くすることによって、心の安らぎを得る。

忍辱波羅密にんにくはらみつ

他の評価や誹謗などをいちいち気にすることなく、己の心が周りに支配されぬよう耐えることによって、心の安らぎを得る。

4 精進波羅密しょうじんはらみつ

安逸を貪ることなく、一心に励むことで心の安らぎを得る

5 禅定波羅密ぜんじょうはらみつ

心を静かに保ち、安定させることで心の安らぎを得る

6 智慧波羅密ちえはらみつ

すべてを正しくありのままに見ることで心の安らぎを得る

 そして、そのありのまま真実」とは、すべてのものは移り変わる諸行無常すべてのものは実体が無い諸法無我心の安らぎが真の幸福である寂静涅槃の三法印とよばれる、仏教の根本原理を正しく観じる事であるということです。

 それが般若心経智慧の手引きであるというわけですね。

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