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   ちょっとした機会があって、松尾芭蕉さんをテーマにお話しすることがありました。
という理由もあり、芭蕉さんをいろいろ調べた事が過去にありました。今回は、そこで得た雑感です。

 芭蕉さんと言えば、日本を代表する「俳諧」の始祖のおひとりです。

 さて、この方に関して、真っ先に思い浮かべるのは、やはり「奥の細道」という紀行文です。
 内容は、自身を西行法師になぞらえ。各地での行状に「俳句」を添えて章を綴っています。考えてみれば現代の「フォトエッセイ」のような感じですね。

 俳句は「文字による映像表現」であるとよく言われます。五七五という一七音の制約で、季語による情景の縛りも入れて、あたかも「絵を描く」ように韻を綴る。
 ある意味、非常に興味深い表現発信です。

月日ハ百代はくたい過客かかくにして 行かふ年も又旅人也
 舟の上に生涯をうかへ 馬の口とらえて老を むかふる物ハ 日々旅にして旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。

それにもまして、この紀行文には大きな哲学が感じられます。そして、それを「旅」というものに収斂している点です。

 芭蕉さんは、人生そのものを「旅」になぞらえています。そしてその基本となる考えは
不易ふえき」と「流行りゅうこうという考え方です。
 一時、教育界でよく取り上げられましたが、最近現場ではあまり意識されてないようですけど、まぁ、これは余談です。

 永遠に変化しないものごとの本質「不易」と、ひと時も停滞せず変化し続ける「流行」があることを体験し、この両面から俳諧の本質をとらえようとすることを、芭蕉さんは盛んに訴えておったわけです。

確かに旅における「不易」は、旅立ちと到着があるということです。で、旅の間は常に変化の塊です。予定通りなんかいきやしません。それが「流行」。

 さて、これを人生に置き換えると、人生における「不易」とは誕生と死があり、それは有限であるということ。そして、その道程は、何があるかわからない「流行」である。だから、固定された人生の形なんかない。いかようにも変化するのだ。

 俳諧も一七音という限られた「不易」のなかで、いかに「流行」を作るのか?という命題のようにも思えます。たしかに「いい句」はがつんときますからね。

 有限である人生を、どのように生きるの?、そういった問いかけのような気もしますね。

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