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漂泊幾花 外伝 ~般若理趣義解5~

Scene7  私という存在

「咲ちゃんや、今晩、『綾』つきあわへんか?」
御前はそう切り出した。
「・・綾さんのお店ですか?」
「ほうや、般若湯一献差し上げたるわ。」
「あら、嬉しいです。」
「かかか・・、そう来ると思うた。」
「御前様、あたし、明日東京に帰ることにしました。ですから、般若湯つきで最後の講義お願いします。」
 御前はまたそこで大笑いした。
「ならば、送別会やな。」
「・・はい・・。」

       * * * * *

 「じゃまするで・・」

 御前は咲を伴って綾さんの居酒屋の暖簾をくぐった。

「・・あらぁ・・、おやまぁ・・。」
カウンターの奥の綾さんが驚いたような顔をした。
「こんばんは。」
「今宵は菩薩はん連れてきたで。」
御前はそう言って笑った。
「なんやぁ、えらい別嬪の菩薩はんどすなぁ」
「あほ、菩薩は皆、別嬪や、こここ・・。」

綾さんはくすっと笑い、通しの用意をした。

「御前の般若湯と、別嬪菩薩はんに、よう合う湯葉どす。」
「わぁ、おいしそう・・。」
咲は屈託のない様子で出された料理を口にした。

「湯葉って、何が原料なんですか?」
綾さんはいたずらっぽく答えた。

「咲はん、御前様に聞いてみたら?」
咲は即刻訊いた。
「御前様、教えてくださいます?」
「おや、丸投げかいな、かかか。」
「五体投地です。」

御前はまた大笑いした。

「あんたはほんまに頓智お嬢やなぁ・・・せやのう、湯葉っちゅうのは、大乗の極地かな」
「え?なんですか?」
御前は、中空を見ながらさくりと言った。
「せやのう、元々は捨てたもんじゃったが、実はこれが本筋じゃったって事かなぁ」
「え?・・」

「聞くが、大乗とな何やと思う?」
「わからないのでお訊ねしてるんですけど?」
御前はまた大笑いした。
「あはは、まさにそうじゃった。」

御前は、咲をじっと見つめて、真顔で言った
「咲ちゃん、あんたは、なんか知らんが、自分を汚すことで、なんかを知ろうと思ってないか?」
「・・・え?・・・。」

 図星だった。

 咲は御前と綾を見た。なぜか二人ともほほえんでいるのが不思議な感覚だった。まるで別世界にいるような気持ちになっていた。

「大乗とはの、自分を救うとか、人を救うとかそういうことじゃないんや。」
「わかりません、どういうことでしょうか。」
「よい、悪い、きれい、きたない。そういうような感覚は自らの心の迷いがあるから生まれると言うことや。」

「はい・・。」

「自然な現象は良い悪いもなく、当たり前にあるやろ?」

「はい・・。」

「出物腫れ物ところ構わず。ありのままなら、男女の性愛も然りじゃ。これを否定したら、人は滅ぶ。」

「なるほどですね。」

「大乗は、この当たり前を直視して、その否定を否定することで、こいつを肯定しまくることから始まるんじゃよ。じゃが、さらにそれを肯定しまくって、そこに否定が生まれる、で、もう一度その否定を否定する。・・もう論理では対応できないやろ? もはや言葉やない、「観」の域に入るのかも知れんのや。」

「そっか、それが御前様のお酒。」

御前と綾は大笑いした。

「さよう、だが、お前さんの例で言えば、性愛を自己否定する形というか自分こわしの方法にする必要はない。なぜなら、性愛そのものは、ただそれが自然にあるものであり、本来は清浄なものであるからじゃよ。」

「そうか、それは生きてる限り当たり前ですものね。」
「かといって、大いばりさせてこだわるものでもない、あるがままに、当たり前にあることなのではないのかな?」

「・・・。」
「自然の摂理をありのままに受け入れるというスタンスが大事なんじゃ。そこからすべてが始まる。」

「・・・ありのまま・・。」

「ほら、お前さんに以前ここで渡した経の走り書きがあるじゃろ、そこに全部書いてあるわいな。」
「・・え?」
「ええか?あれは理趣経一七清浄句という経文や。」
「どんな内容なのですか?」
「お前さんが自分壊しに使おうとしている営みは、実は菩薩行なのだという教えじゃよ。」
「え~?そうなんですか?」
「字面だけだと誤解も招く経じゃが、何やらくぐり抜けたお前さんなら、たぶん理解できるかも知れんな。」

「妙適、って・・・、セックスの事なんですよね?」
御前は静かにうなずいた。

「今朝灌頂堂で両界曼荼羅を拝んだやろ。あの両界っていうには何やと思う?」
「はい、どうして同じようなものが二つあるのか。それも不思議です。」
すると、御前はにこにこしながら、カウンターに箸やら調味料やらを並べながら話し始めた。
 
「一つは金剛界曼荼羅といって、大上段におるんは大日如来はんだ。これを取り巻くのがそれに行き着く構成要素で、すなわち揺るがない大宇宙の現象とかあり方とか時間とか空間とかそういったものすべての姿や。構成要素はすべてが平等に唯一無二で存在しておる。この中には聖も俗もない。ただ清浄あるのみだ。」

「大日如来は、創造主のようなものなのかしら。でも、なんか微妙に違うかな・・。で、もう一つは?」
咲がそう訊ねると、御前は並べていた銚子をとり、咲の腹を指さした。

 「胎蔵界曼荼羅といって、この構成要素になっておる大日如来そのものの中の悟りの宇宙じゃ。あのぎっしりの中にそのぎっしり分だけ、このぎっしりが存在しておる、というわけじゃ。で、この構成要素もすべからく平等に清浄なのじゃ。」
「大宇宙と小宇宙というわけですか。」
「そうともとれるの。簡単に言えば、行と中身ともとれる。お前さんも、やがての阿子も、あるべくしてそこにおるのじゃ、いらぬものなどない。」

 すると綾さんは笑いながらこう付け足した。
「おでんのだしと具のようなものや。」

咲は、「あがいていた」自分に気づき始めていた。

以下 次号へ続く

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