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「日本仏教」と「止観」の接点 その1
「即身成仏」という概念
この考え方は、空海が「大日経」と出会ったときに
概念として生まれたのかも知れません。
もっともこの考え方は、
大乗仏教の大乗仏教たる所以の根本ともいうべきものです。
すなわち、「自分自身はそもそもブッダなのである」
というスタンスです。
華厳経でもそうでしたが、そもそも自分という存在は、
「宇宙における必然」としてそこにあるという概念です。
ですから、あるべくしてある自分は、
そっくりそのまま「真理」の姿であるということです。
これを自覚することで、
自らがブッダであると悟る事なのだということです。
しかし、衆生はそもそもそれに気付けず、
厳しい修行「止」を行う事で、
その末に人を救うことができる「観」の域に達するのだ。
という密教の根本原理が生まれます。
これが山岳信仰である修験道や神道と融合し、
日本独特の「密教思想」が生まれます。
これは空海さんも最澄さんも尊重しており、
それぞれ真言密教、天台密教という系譜で
日本仏教の基礎になっていきました。
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これらに共通することは、
「自分が天然自然と一体になる」ことで、宇宙の真理に触れ、
そのことが「ブッダ」になれるという、
言ってみれば「テーラワーダ」の仏教観に戻った観とでもいいましょう。
ですから、その「仏」の境地に至るには厳しい修行が求められる。
そういう図式になると言うわけです。
ある意味「先祖返り」したとも言えましょう。
ですが、原初の仏教との違いは、
これらの「教団」は、ある意味「自活」するというルーティンを持っていたことにあります。
当初においては、「鎮護国家」のため加持祈祷を行うという事で、
その存在の経済を保っていたものの、この論理だと僧は「仏」であるので、
「救済」をする事が求められるわけです。
ですから、これら教団の修行者は、「仏である」事を、
世俗に求められる存在になるわけです。
これを象徴した存在が「聖」という言葉でくくられます
しかし、これだけでは救われない「末法」の世が、蔓延していきます。
ここで、「第2の宗教改革」として生まれたのが「鎌倉新仏教」というわけです。 ここでの大きな改革のあり方は「止」のあり方でした。
その変革の内容は、「誰もが実践できる瞑想」でした。
これを易行という呼び方でやがて広がっていきます。
この経緯は、かつて上座部仏教から部派仏教へ広がっていった動きを彷彿とさせます。
すなわち、日本仏教は「止観」をしっかり引き継いで、
民衆を救う教えに変貌していきました。
すなわち、鎮護国家から「民衆救済」へと変化していったのです。
次回は、鎌倉新仏教について述べていくことにしましょう。