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いまから30年前に、巨大な地震が大都市で起こりました。7000人近くの方が亡くなり大きな被害や教訓を与えた災害でした。
むろん、そのあとには未曾有の大震災もあり、考えれば毎年そういう災害が起こっています。そして、そのたびに人々は「教訓」を重ねています。
むろん、それに学ぶこともしないで、悲惨な結果を生んだ、多くの事例もありました。
いつになっても、学べなかったり気づけないものは、どうしてもいます。まぁ、そんなカスはほっといておくしかないでしょう。
ただ、この30年前の地震は、今までになかった新しい「スタンダード」をあたしたちにもたらしたとも言えます。
まず一つには「トリアージ」という救急概念が定着したことです。具体的にいえば「選別」という意味の言葉です。
災害など緊急において、「救命可能」のレベルを瞬時に判定して、優先順位を決めて、できるだけ多くの命を救う。
そういう過酷な決断を伴う判断です。
あたしは、その経験はありませんが、やはり「決断」にはおのれの覚悟が求められます。その時の判断の基準は、一体なんなのでしょうか。
そこで出るのが「最大多数の幸福」
すなわち、蘇生できる確率が1%と10%なら、どちらを選ぶかです。むろんどちらも確率は低い、10%の人だって、20%が運び込まれたとしたら、やはり、その選択を迫られる訳です。
スタッフが関われる時間は有限ですから、すべての命を救うなんておよそ無理です。ならば、すべての命がなくなるより、最低限の命は救いたい。その結論がトリアージなのでしょう。
その決定は、たぶんおのれの中なのだと思います。すなわち、瞬時に悟った「真理」に基づいたのだというわけです。
でも、その決断した医師はそんなことは露とも思ってはいないでしょう。彼らの判断は一瞬一瞬で変化します。その場で検証なんかできません。
ですが、彼らなりの「基準」はあったのだと思います。しかも、それは自らの心の十字架でもあります。
「神の思し召し」と、責任を他に転嫁できれば彼らの心は軽くなるでしょう。ただ、ニーチェさんの言うように「その神は死んだ」という前提であれば、自らの中に「新たな神」というものを作り出す必要があるわけです。
ですから、彼らはその一瞬一瞬に、何らかの「信念」に基づいて行動した訳なんですね。ところが、その「神」は決して絶対的なものではないのです。それゆえ、内面では「葛藤」そして外面では「批判」が伴います。それが、個対個なら「議」というものなりましょうが、厄介なのは「集団対個」の図式になりがちなのです。
そうなれば、もはや「多数」が「個」を統括する事になります。かつての中世ヨーロッパの異端裁判、そして「自己批判」のように、集団の規制に正義を求める事になるのです。
しかしながら、野放図な個の論理を放っておけば、いずれは「力の支配」に陥るわけです。これは生物として生まれた人間とて逃れられないでしょうが、そこに「神」はわが心にあると考えたのが、古代ギリシア人が重んじた「知性」なのです。
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ただ、ニーチェさんはその「神」に代わる基準を「公共」というものに置いています。ある意味曖昧な表現で終わっています。
また、空海さんはおのれは既に仏身なのだから、その身をもって人に尽くす事が当然である。と言うことを述べております。「大乗」とは究極の「WIN・WIN」を目指しておるわけです。
すなわち、人はみな幸福を求めていて、その幸福はどのように分配されるべきか。それですべからく人は「考えて」いるわけです。しかし、その考えるというフィールドは、決断とか責任というように、いわば戦場でもあるわけです。
勉強とはそのための「知識」という武器を「学問」する行為なのではないか。そう考えると、勉強って案外面白いものです。
なんと言っても、「真理」は自らの中にあるわけですから、それに気づけるためのアイテムを得る作業なのですからね。