死と生 ~松島「雄島」にて
その光景はいきなり厳かだった。
感受性の強い彼女は、言葉にならないという表情を見せていた。
ただ、その正体も自分自身でわかりかねているようだった
しかし、ここの雰囲気は、むしろその方がいいのだ。
ただ感じる
それが一番素直で正直なのではないのか。
「松島」という名称は、実をいうとかなり後に付いたものだ。今では雄島というが、元々は、この島を指したものであるという伝承もある。
そして、その発祥だというこの島は、橋を伝って、この世界と、彼方の世界を分けているようにも感じる。いや、そう感じさせるのだ。
彼女は無言の表情で、そう感じていたのかもしれない。。
たしかに・・・・
こういう雰囲気は、言葉で表現できない世界だ。
凝灰岩の柔らかな岩肌に刻まれた古来の磨崖仏は風雨にさらされ形を成さない。
さらに無数の墓石や卒塔婆が、無造作に積み上げられていたり、放置されていたりという光景だ。中世の松島は「奥州の高野」と称される死者供養の霊場であったともいう。
だが、この島は全く放置されているわけではない。
松島の寺院施設や遺構は、瑞厳寺が担っている。
けして「放置」ではなく。「諸行無常」を呈する意図があるのではなかろうか。
すなわち、「死」の象徴である墓石や塔婆
そして、それらを取り巻く絶景
極楽がこうだという説明が妙に納得できる。
この島は西を向いている。
島への入り口の橋からは、西側に穏やかな砂浜が見える。ただ、それは「彼岸」なのだ。
とすれば、この島においての悟りが可能だろうか。という疑問もわく。
その昔、見仏上人がここで12年間もの長きにわたって修行を続けたという。
まさに島自体が霊場の体をなしていて、諸法実相の諸行無常を感じざるを得ない。
「そうだよねぇ、ホントにぼろぼろ崩れてく。」
彼女は、率直に言う。
「なんもわからんから、知りたい気になってくるなぁ。」
あ、そうか、ここは「浄土への入口」なんだ・・。すなわち「気づき」だ。
死後の世界を思うより、今ここの世界に触れて、自らがどう生きるか。どう悟るか。
それをあらわに見せる場所なのかもしれない。
不思議な場所だ。
仙石線の駅前には、いくつもの「牡蠣」が売られていた。食べ放題とかで、自分で焼いて食べるシステムだそうだ。
彼女はそれがめんどくさいのと、あまりにも行列が長いので、あっさり却下された。
誰かに焼いてもらった方が心配ないというのだ。なるほど、これが絶対他力。ってやつかな。・・ちょっと違うと思うけど。