漂泊幾花 第3章 ~みやこわすれ~
Scene2 かわいそうなマリアと「はは」との邂逅
「雨・・・すごいね」
「・・・ああ、まるで梅雨入りしたみたいだ・・・。」
「ね、相合い傘で歩こうか?」
「ははは、それもいいな。」
「腕組んでいい?」
「肩を抱いても良いよ。」
「やだー、明るいうちから。」
咲は自分の傘をつぼめると、僕にぴったりと寄り添った。石畳の坂道は柔らかな光に包まれて不思議な雰囲気を醸し出していた。この風景は、故郷の函館になんとなく似ていた。僕は、あえて「街がなくなった」地区には行かないようにしていた。咲もそういう気持ちだったのかも知れない。
むしろ、さすがのファットマンも山並みにはばまれ破壊できなかった大浦地区を歩くことで、原爆にすら負けない歴史の大いなる力を実感したかったのかも知れない。
「この町、本当に原爆が落ちたのかなぁ・・・。」
咲は不思議そうにつぶやいた。
「・・・長崎は、原爆の実験効果としては、あまりいい場所ではなかったようだね。」
「なのに・・・なぜここに落とされたのかなぁ・・・。」
咲は辺りを見回しながら、不思議そうにつぶやいていた 大浦天主堂のそばに瀟洒な喫茶店があった。僕たちはしばしそこで雨宿りすることにした。
「素敵な店ね・・・。」
「うん、そうだね」
店の中全体に、アンチークな雰囲気が漂っていた。
「長崎って、こんな昔の雰囲気があるって思わなかった。広島とずいぶん違うわ。同じ運命だったのに・・。」
「広島と違うところは、広島は予定された運命だったが、長崎は偶然の運命だったって事だよ。」
咲は不思議そうな顔をして僕を見た。
「え?それってどういうこと?」
「長崎に原爆が落とされたのは偶然だったと言うことだよ。」
咲は不思議そうな顔をして僕を見た。
「アメリカが当時、原爆投下の第一目標にしていたのは広島だったんだ。」
「それは知ってるわ、地形が実験には都合良かったんでしょ。だから、広島だけが空襲されなかった。」
「当時アメリカは3発のタイプの違う原爆しか持っていなかったんだ。」
「3発のうち、2発も日本に落としたって事?」
「そう、すでに敗戦工作に入っていた日本に何故2発も原爆を落としたか不思議に思わないか?」
「うん、それは思ってたよ、高校の先生には説明してもらったけど、日本が降伏を渋っていたからって、だけどなんか理不尽だったから。」
「俺が現代史に専攻を替えた理由はそこにあるんだ。いたずらに渋っていたわけじゃないんだと思う。だって、考えてみたら、たくさんの犠牲のもとで、終戦の現状があったわけだし、当時の政治責任者としては、姑息にそのまま条件を呑むことができるか?日本という国の民族の興廃に関わっていたことでもあるし・・。」
咲はそこで深い溜息と共に窓の外を見た。
「・・・なんだか、真実を知りたくない気もするなぁ・・・。」
一番やるせない気持ちを持っているのは咲自身だったと思う。歴史の刻印がくっきりと咲自身の運命に記されているからだ。それは痛いほどわかった。しかし、僕は咲にあえて告げることにした。
「ソ連が参戦して、8月9日、戦後の占領政策を有利にするため、最後に残ったもう一つの未実験のタイプの原爆を落とすことをトルーマンは決断したんだ。」
「・・・それが、長崎なのね。」
「いや、ターゲットはここじゃない。長崎は候補地としてはついでに近かったんだ。」
咲はわからないと言った表情で僕を見た。
「・・じゃ、どうして長崎だったの?」
「ターゲットの小倉が悪天候だったんだよ。で、たまたま晴天だったのが長崎だったんだ。広島と違って偶然だったというのはそういうところなんだ。」
「・・・ひどいね・・・。」
「候補地としては実は函館も長崎と同じレベルの標的としてあったらしいんだよ。」
「・・・・・。」
「だから、咲の運命がひょっとしたら俺にそのままシフトしていた可能性もあったって言うことだ。」
「でも、あたしはこうしてその運命のもとでここにいるんだよ。それは、それで良いような気もするかな・・・。長崎があったから、あたしが産まれてここにいる・・・。そして、耕作の恋人でいられる。」
「・・・・・・。」
確かに咲の言うとおりだった。運命には悪いも良いもない、そのすべてを含めてそこにあるものだと言うことだ。咲は京都であの老僧にあってからその事をすっかり悟ってしまったのだ。
大浦天主堂に着いたときには、雨はいつしか上がっていた.
「咲、やはり、行こう、かわいそうなマリアに逢いに。」
咲は「え?」という表情で僕を見た。そして、また少しうつむき加減にぽつりと言った。
「ちょっと悩んでたって言うか、不思議に思ってたの。京都の人である、実母が、どうして長崎に動員に来てたのかなって・・。まぁ、それはいろいろあるだろうから、静かにしとこうかなって、これはね、あのお坊様にお会いしてそう思ったのよ。」
「ふうん。」
「だから、半分吹っ切れた。あたしがここでやろうとしていたたくらみもやめた。行くわ、マリアに逢いに。」
咲はそう言うと、また鮮やかな笑顔を僕に向けた。
古い電車はやがて僕たちを浦上地区へ運んでいった。
浦上天主堂のくすんだコンクリート造りの建物が電車からも見えてきた。粉々になった建物はこんな形でよみがえるのもいいだろうと僕は思っていた。松山町という駅に降りたつと、こんもりとした公園が交差点の双方に見えた。案内板に、平和公園、原爆落下中心碑という二つの表示があった。矢印は全く正反対を向いていた。
「咲・・・どっちへ行く?」
咲はしばらく考え込んでいたが、やがて爆心地の方角を指さした。僕はうなずいた。狭い川の道沿いに、こんもりとした茂みの一角がそうだった。この地区は、大浦天主堂やオランダ坂がある地区と違い、道も広く区画されていて何となく広々とした印象を受けていた。僕たちは「爆心地記念公園」と銘打たれたその一角に入っていった。
「・・・・・・・。」
咲は天高くすっと伸びた、レンガ造りの廃墟を見つけたとたん声を失い、そこに立ちつくした。
「・・・・みつけた・・・。」
「・・・え?」
「かわいそうな・・・・マリア・・・。」
僕は咲の視線の先を見た。梅雨明けのまばゆい青空の中に、すっと立つがれきのレンガ造りの半円のアーチと、その上に立つマリア像。くすんだその色はかつては純白であったろうが、黒く焼けただれていた。
「実母の見た『かわいそうなマリア』よ・・・。」
「・・・・これが・・・。」
https://music.youtube.com/watch?v=KR54fHpcxEQ&feature=share
浦上教授(せんせい)に聞いた「あの日の浦上天主堂のマリア像」だった。爆心地の碑は、被爆し破壊され尽くした浦上天主堂の残骸だったのだ。
「・・・耕作・・・、怖い・・。」
咲は僕の腕に寄り添った。
「何が・・?」
「何かわからない・・・。だけど、すごく怖い。きっと、当時実母が感じた感覚なのかも・・。あたし自身にとっての怖さと言うより、もっと大きな、すごく大きな怖さを感じるの・・。」
咲はしばらく塔上のマリアを見つめていた。
(信仰も何もかも潰され、うちらの日本が日本でなくなってしまう・・。)
咲の実母はそうつぶやいたのだ。この半身になってしまった天主堂の前でだ。咲はたぶん、そんなことを思っていたのかも知れなかった。気のせいか、もんぺ姿の咲の母の姿がそこにだぶって見えたような気がしていた。
「・・耕作。」
咲は僕の腕にじっと寄り添いながら小さくつぶやいた。
「あたし達は、一体どこに行ってしまうんだろう・・・。」
「・・・・。」
「マリアがずっと空を見ているわ、実母と父が出会ったあの日からずっと・・・。」
「そして、何か、無言で問いかけているのだな・・。」
「・・・そう、あたし達は、一体、何者なんだろう、って。あの日を境に、たぶん、マリアはずっと問いかけてるわ。」
「・・・何を?」
「・・・天空から降り立った光は、一体あたし達の何を奪っていったのかって事・・・。」
「・・・・。」
僕は咲の言葉が計りかねていたが、感覚は何となくわかっていた。しかし、それは全く言葉にならなかった。ただ、単に咲が自分の運命のことを恨み言で言ってるのではない、もっと大きな視座からの物言いのような気がしていた。
いわば、神への問いだったのかも知れない。
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