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自分らしさって、なに?

一昔前ですが、「自分探し」という言葉が流行りました。
自分らしくとか、今もそう考えている人は多いと思います。それはそれで結構なことだとあたしも思いますし、決して悪いことではありません。

 でもね、さて、その「自分」って、いったいどう定義するんですか?

 そういう問いにどう答えたらいいのか。かくいうあたしもそれは解りません。
なぜなら、「分」という言葉がちょっと引っかかるからです。しかも、「自」の「分」など、何処で探すというのか?。また「らしさ」ってなに?
 そんな疑問にぶち当たります。

 よく「分」を弁えよ。という言葉があるように、「分」とはそのものの「立ち位置」である。という意味と捉えられます。
さて、そこで考えられるのは、「自」は絶対な存在であるのに対し、「分」は相対的なものだと言うことです。

ですから、絶対的な「自」に対する「分」というのは、本来あるもので、探すものではないし、「らしさ」などという相対評価などあり得ないと言うことになります。

 彼我論という考えが、仏教にはあります。すなわち、彼があるが故に我があるというわけですが、そもそもそんなものに実体はない。というのがいわゆる「空」という概念です。

 「五蘊皆空ごおんかいくう」という言葉があります。「五蘊」とは五つの集まりという意味です。その五つとは、「色・受・想・行・識」という要素で、物の存在とはこの五つであるという考えです。
 「色」とは現象や存在。そして、それを感じ取り(受)何だろうと思い(想)、確かめて(行)、そうなのかと納得する(識)。
あたしたちが認識している現象とは、そもそもこういった構成で作られているのだ。ということです。

 しかし、そもそも「色」という現象や存在そのものは、元々は実体がない「空」であると認識すれば、それに囚われてあれこれ考えて納得すること自体も、実体がない「空」ではないのか。

教室では、黒板にチョークでたくさんの「情報」を表します。ですが、次の時間は全く違う情報がそこに表され、前の時間の情報はあっさりなくなります。ですから、そこにある現象は実体はないのだということです。

 しかしどうでしょう、黒板には既にない情報は、たとえばノートに記録されて、個々の情報として受け止められたとしたら、それは「実体がない」ものがあらたな「実体」に変化するというわけです。

あたしの相対は「風」だ

 そこには「相対」ではなく、「絶対」が生まれます。すなわち、「自」というものであり、それが「分」を決めるというわけです。
 ですが、それは常に変化していく物です。「相対」に囚われる「自」などあり得ませんし、「絶対」も瞬間的な物です。
  ですからそんな「自分」など、泡沫のような物ですが、それが紛れもなく「自分」の姿でもあるのです。

 真の「自分探し」これは、他に求めるのではなく、既におのれの中にあるが、実体はないということが、ない実体が己にある。ということでしょう。このことを覚った存在が、心の自由を得た「観自在かんじざい」というわけです。これは実体がないが現象としては確実にある。

 色は即ち是れ空色即是空。されども空は即ち是れ色空即是色である。とはこういうことを述べているのです。

 自分らしさなどとは、もともとあるわけで、他と比較するものではないということですね。探すのではなく、観じるものなんですよ。
 この観点でいると、マウンティングに拘る人なんて、バカみたいに思えますね


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