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「こころ」のままに・・・とは
よく「マイペースだ」とよばれる人がいます。
これって、いい意味にも、悪い意味にも取られますね。
というのは、このマイペースにも二種類あるからなのです。
一つ目のマイペースは、「自分勝手」というヤツです。
マイペースの「マイ」は、対象をどこにおくかなのですが、それが「自己」ならば、エゴイズムといって、「相対的」なものになります。
何でも自分の思い通りに進めたがる。つまり強引に自分のやり方に周囲をはめていく。
世間的にいえばマウンティングで、「あんたが大将!」ってやつです。
二つ目のマイペースは、「あるがままにいる」というスタンス。
何がおきても、決して動じず、「我が道」に拠っている、すなわち「自然」を対象に、「絶対的」な自分のありかにいるのです。いわゆる「われ、関せず」
それが、他から見れば「マイペース」に見えるわけですね。見ようによっては無責任にもとれるし、自分勝手にも思えますが、誰にも従わず、かつ抗わない。そんな水のようなスタンスです。
さて、どちらも「マイペース」で、「自分勝手」です。
ですが、両者にはなにがしかの違いがあります。すなわち、前者には他との関係における執着に基づいています。
自分の思いのままにしたいという執着です。ですからそれからはずれるものは、認めないし排除する。そんな思いがあります。
後者はその執着がありません。周りがどうあろうと、己は己。なにがあってもあるがままで、良い悪いの区別も無い。いわば「空」というスタンスです。
何があっても「ああ、そうか」で済ましてしまう。そういったマイペースです。
前者と後者の違いは「マイ」の捉えが、どのような地平にたっているかなのです。前者の場合、基本が自分という「自我」を中心に置いています。ですが、般若波羅蜜多の観点からいうと、それは空であるという事になり、それに気づいていない状態であるわけです。そもそも存在しない我ですので、「我を通す」ということは、ありもしない自我への執着以外の何者でもありません。
一方で、「マイ」の捉えが、宇宙の摂理の中にあるとすれば、「マイペース」は、自然の摂理と合致します。
翻って、あたしたちが「自然」を見るとどうでしょうか。あたしたちの「自我」から自然を見れば、それは全くのマイペースです。
すなわち「最上の悟りの境地」とは、自らが宇宙の摂理に合致していると観ずる状態であり、ブッダの境地だというわけです。
それは言葉では表せないものだという意味で、般若心経では「咒」という表現をしています。
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故知般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 能除一切苦 真実不虚
ゆえに、真実に目覚める智慧とは、大いなる力を持つ観であり、明快な観である。無上であり、他に比類無い観なのである。
であるから、人が持つあらゆる迷いを除き、真実にして虚しさが無い境地に至るのである。
自我の心を無くしてあらためて自己をみつめると、様々な因や縁によって、生かされている自己が発見できるわけです。そうすれば、自然と他の存在も自分という因や縁によって互いに成り立ち、存在していることに気づきます。ですからすべてが有り難い。
そうなると、この上何を求めるか、そのまま自然のあるがままに生きる「自己の在り方」は、言葉として説明することも無いというわけになります。あるがままの宇宙そのものが「自己」と同一化しているからです。