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「日本仏教」と「止観」の接点 その6

宋の時代の中国は「禅」がトレンドであった。

日本において「禅」の思想を伝えたのが、栄西さんと道元さんです。
このお二人も比叡山延暦寺における天台宗の学僧でした。

 しかしながら先にお話しした法然さんと同様、
宗派に飽き足らず、「なんかちがうんでないの?」という疑問から、
この二人は、当時の中国、すなわち宋に渡り、
本場の仏法を目指したわけです。

当時は「念仏」によって極楽往生するという
浄土教の教えが末法思想と同様に広がっていましたが、
このお二人も実を言うと法然さんと同様、
「今のままでは人々の救済などできない」というように、
当時の宗門のあり方に疑問を抱いた方でした。

法然さんとは別に、このお二人は
「やっぱり仏教の本場に行くべきじゃないか?
そして最澄さんが伝えた天台の本質の復興を図るべきだ」と、
その昔の空海さんと最澄さんのようなことを思ったわけです。

すなわち、第2の宗教改革の様なものです。

しかし、もはやこの頃は遣唐使などのような
「政治的外交」はありませんから、
彼らは貿易船に乗って、宋に渡ったわけです。

まず、二度にわたって宋に渡ったのは栄西さんでした。
栄西さんは「天台の復興」を目指して入宋しましたが、
当時の中国ではむしろ達磨大師によって始められた
「禅」が主流でした。
このことに栄西さんはカルチャーショックを受けるわけです。

そもそも6世紀に達磨大師が創始した「中国禅」とは、
仏教教学の根本であるまもるべき事」「わかるべき事」「実行すべき事」のうち「定」を重視する流れのことです。

むろん、仏法ではすべてが大事にしなければならないことですが、
その中でも特にどのように行動すべきかに
サマタを置いたとも言える流れです。

 ここで達磨大師が説いた「定」とは「すわる」であり、
このことを「禅定」という言葉で表しています。
この流れは8世紀頃に六祖と呼ばれた大鑑慧能だいかんえのうによって集大成されました。

やがてこの高弟である南嶽なんがく青原せいげんから
二つの流派に別れて、宋の時代に至り、中国禅の基礎ができました。

当時の宋ではこういった「禅宗」が仏教の主流となっており、興隆していたのです。

栄西さんは、南嶽の流派を継いだ臨済による流れの「禅学」を学び、
これを日本に伝えるべきだと決心します。

 この臨済の禅とは、看話かんな禅」といい、
座ることと同時に、「解決不能」な問題を出されます。
これを「公案」といいます。

いわゆる禅問答のことです。

この公案に対して「正解」を出そうとしても、正解はありません。
公案のあり方は、座って「解」を探ることにあります。

ですから、万人に通じる公案の解などないと言うことです。
ですが、解を出すことより、
如何にそれを看たか=サマタであり、
そこでえたものは何だ=ビッシャーナであるということなのです。

CONTINUE


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