我思う故に、我あり
さて、この記事は、あたしの絵をいつもご愛顧いただいている
クリエイター様の記事です。
とても興味を持ったのが、「自己のあり方とは何か」
という疑問にまっすぐ向き合っている点です。
すなわち、自己のあり方とは、本来不安定であり
何かの「相対」がないと、その同一性を保証できないものです。
ですから、それが感じられないと「安心」は望むべくもなく
「不安」に陥るわけです。
では、それを何が保証してくれるのだ?
そういう疑問がわきますが、人は崇高なるものにゆだねました。
つまり「神」の存在です。
ですから、神に相対して、自分は善か悪か。
こういう論理で、自己の同一性をはかってきたわけです。
これが「宗教」という概念です。
これにはまると、自分で考えなくていいから、確かに楽です。
全部「神」の思し召しですから。それに従えば善だからです。
世の中には理不尽なことが、ほぼ9割以上あると言っていいでしょう。
ていうか、「おのれ」を対象にしたら、ほぼ100%理不尽です。
神さえおかしくない?という考えも生まれます。
思うとおりにいかないのが当たり前の中で、
それならば、己の中に「神」を感じることである。
それを徹底すると、「真理」につながるのではないのか。
つまり、真理は外ではなく、己の中にある。
こういう感覚は、すべてが夢であって、
この身体すらも実在しないとしても、
それについて思惟する働きである「考える我」は存在せざるを得ないものである。
こういう考えが「我思う故に我あり」であり、
デカルトさんが「神からの脱却」をはかった「近代哲学」だったわけです。
さて、不安も、自己同一性も
もしかしたら「他」にはないのであって、
己の心にあるのではないか。
こう考えたのが「唯心論」という考え方です。
仏教もある意味この系譜に属しますね。
ももまろさん、よい提起、ありがとうございました。