西洋哲学にも観る「性善説」「性悪説」
ギリシャ哲学をひもとく
さて、こういった「性善説」「性悪説」は、
何も東洋に限らず、西洋哲学の中にも垣間見られます。
そもそも「哲学」とは人とは一体どのような存在なのだ?
と言う問いから始まりますから、
こういった二元論によって、人は思索を重ねていくものなのです。
ギリシャ哲学に始まる西洋哲学は、人間の本質は理性にあるとしました。
すなわち理性があるから人間たる所以であるとする姿勢は、
一種の「性善説」であるとも捉えられます。
ソクラテスさんやプラトンさんたちによって提唱、理論化されたことは、「理性こそ人間の本質である。」という倫理を示しました。
すなわち性善による政治のあり方こそが、理想であるというわけです。
これがいわゆる「イディア論」です。
ところがこれに対し、
「もっと現実を見据えたらどうか」と批判を加えたのが
アリストテレスさんでした。
アリストテレスさんは、確かに人間としての認識は、
個を超越した一般概念がないと成り立たないが、
具体の存在から定義のみを切り離したら、
それは架空上の観念であり、実在とは言えないではないか。
とプラトンさんのイディア論を批判しました。
そして、現実に働く理想は現実の中から生ずるものである。
という現実主義の立場をとりました。
その主な骨子は、「中庸」と呼ばれる概念です。
それは、人間の「徳」には、
ソクラテスさんが説く「知による徳」だけではなく、
経験や修練によって「習慣づける徳」も必要である。
という主張です。いわゆる「思慮」という要素です。
この辺が荀子さんの主張する内容に共通する概念です。
厳密にはおなじではないかも知れませんが、
「人間の機能には理性的な部分と、非理性的な部分が存在している。」とします。
ですから、実践的な知性の徳とは、
理性の中でも「思慮」こそが大事であると考えたのです。
そしてそれは両極端を避け、もっとも適切な「中=中庸」の原理に従い、
快楽と苦痛の「中」を時と場所に応じて適切に判断して
行為を選択する事だとしました。
それは、中庸にかかる修練と経験による習性
すなわち倫理が成立するとしたわけです。
ですから、その具体的な装置として国家の必要性を説きました。
ただ、この国家観は、近代国家のそれではなく、
多様な市民による「共同体」という概念です。
そこでこの共同体へ結合させる原理は、
共有ではなく「正義と友愛」であるわけです。
それゆえに教育が重視されるわけです。
まず正義の正体は全体的正義と部分的正義とに分けられます。
前者は「法による全体的な秩序」によって共同体の幸福を追求すること。
後者はそれが価値に関係なく平等に分配される公平性である。
としました。
そしてその具体が国家であり、人は社会的動物であるから、
それは終局的な人間社会のあり方なのである。
と定義したわけです。
・・・なるほど。