「日本仏教」と「止観」の接点 その4
「懺悔」と「悪人正機説」
さて、前回登場させました親鸞さんですが、
凡人たる凡人に悩み抜いた法然さんを上回る
「才能なし」のドツボにいて悩んでおられた人でした。
つまり、どんなに頑張っても「煩悩」から逃れられないのです。
しかも、親鸞さんは、僧でありながら
どうしてもスキでたまらない女性がいたわけです。
恵信尼さんといいますが、
結局この方と親鸞さんは夫婦になりました。
当然ながら、僧としてはあり得ないことでした。
ですがあくまでも僧でありたい、しかし、女性を忘れられない。
こういった究極の中から、
親鸞さんは、この末法に生きるものは
「すべからく悪人である」という考えに至ります。
これが「悪人正機説です」
根本は、まずは「自分は悪人である」と自覚することです。
このあたりはキリスト教の「原罪」にも共通するかも知れませんが、
同一ではありませんので、いずれ、講義するテーマといたしましょう。
まずは、この世自体を「仏の視点」におくということです。
そう考えれば、まず、「末法の世」に生きるものは、
「仏の教え」は一切伝わっていないという前提から始まります。
すなわち真理を何もわからないものが
うじゃうじゃと迷いの中でうごめいている
という状態なのだということです。
つまり、誰もが「無明」のままにうごめいているのがこの現世である。
というわけです。
そこで、唯一「善」であることは、
自分がまことの善は一つも出来ない、
すなわち「悪人」であると気づくことにある。
というわけです。
「善人」は、真実の姿が分からず
善行を完遂できない身である事に
気づくことのできていない「悪人」であるとする
というパラドックスを示すわけです。
そして善行によって往生しようとする行為は、
「どんな悪人でも救済する」とされる
「阿弥陀仏の本願力」を疑う心である。
この考えが「絶対他力」という考えです。
これが親鸞さんの教えの根本になります。
衆生は根源的な「悪人」であるがゆえに、
阿弥陀仏の救済の対象は、「悪人」であり、
その本願力によってのみ救済されるとする。
つまり「弥陀の本願に相応した時、
自分は阿弥陀仏が見抜かれたとおり、
一つの善もできない悪人だったと知らされるから、
早く本当の自分の姿を知りなさい」とするのが、
「悪人正機」の本質であるとされます。
ですが、この悪と善は人が決めるのではなく、
あくまでも因と果によるものだ。
ということを、般若理趣経のように
「取扱注意」の考えだと申し添えておきましょう。