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中国三千年の歴史に挑戦する・その9
世界帝国の誕生~唐王朝の盛衰 前編
617年~907年
唐王朝が大きく発展し、確固たる体制を築きあげたのは、初代高祖の次子にあたる李世民でした。彼は大きな支持をうけ、二代皇帝太宗として即位しました。
彼は有能な大臣、名将、忠実な部下を上手く活用し、大いに国威が発揚しました。太宗は「認めて伸ばす」そういうタイプの皇帝だったのです。
版図は大いに拡大し、他民族も次々と恭順しました。この太宗の政治を貞観の治と呼びました。
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初期の唐王朝の政治の大きな特徴は、諸制度の整備と、律令による厳格な統治でした。太宗はこれらの制度の定着に力を尽くしたわけです。
その統治制度は、律令制度と呼ばれ、その後の東洋社会の政治に大きな影響を与えました。これによって運営されるのが「律令国家」であり、古代日本も必死こいて建設しようとしたんですね。
そもそも律令国家って何をもって言うのだ?
それはいい質問です。
ぶっちゃけて言いますと、それは律令という「きまり」に基づいて運営される国家のことを言います。
現代においても、ほとんどの国は「法治国家」と呼ばれる、「法」に基づいて運営されていますが、これと全く同じ仕組みであるといっていいのです。
律とは刑罰法を指して言います。そして令とは、身分法や財産法を含んだ一般法規のことです。
また、臨時法である格、そして律の執行細則にあたる式によって法体系が作られていました。
この制度は7世紀から8世紀にかけて整備され、日本を含めた周辺の諸国にも、大きな影響を与えました。
唐はこうした律令に基づいた、強固な官僚国家でした。中央の根幹にあたる官制が三省(中書省・門下省・尚書省)があり、御史台、九寺、五監があって、その他の細かな組織を含めるとその数は膨大でした。
その仕組みをかいつまんでみましょう
たとえば「三省」ですが、中書省は、皇帝の詔勅、そして表草(訴え)に対する皇帝の批答(考え)を起草します。
そして門下省はそれによって下された詔勅やそれぞれの役人の意見を審査します。その結果に基づいて尚書省の各部に具体的な指示を行うという仕組みでした。
尚書省の各部は6つあって、吏部(人事)・戸部(戸籍)・礼部(外交儀礼)・兵部(軍事)・刑部(法務)・工部(通商産業)を担当していました。その下には各司が4つあって、述べて六部二十四司となり、こういった「役人」だけで36万人以上がいました。
そして、この役人たちの俸禄として口分田の徴税権を与え、これを職分田という形にしました。
考えれば膨大な公務員を抱えて、国家予算のほとんどが「人件費」であったことがうかがわれますね。
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このあたりの内容については、別の観点から見ると興味深いものがあるのですが、今は深入りしないで別講に譲ることにします。
ですが、一見完璧に見える制度も、こういった硬直的な制度であるが故に内部矛盾が次第に拡大してきます。官僚制は政治の腐敗を生み、画一的な均田制はやがて格差を生みました。このような単純な図式ではないものの、内部矛盾は次第に拡大していきました。
しかしながら、こういった種をはらみつつも、表向きは栄華を究めました。気をつけたいのは、いつの世でも「栄耀栄華」な時ほど、内部矛盾は根深いと言うことです。
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