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  さて、荀子さんも孔子さんの「儒教」の流れにいます。
そもそも「儒教」とは人の道を説くものであり、
「政治や君主のあり方」として、
諸子百家とよばれるものが存在したわけです。

荀子

 荀子さんは孟子さんが主張した「仁義」よりも「礼」が大事である。
と説いた人です。
すなわちなにゆえ「礼」なのか、と言う根拠が「性悪説」なのです。

荀子さんは、「学は以てむ可からず」と述べています。

 すなわち、人間は終生学び続けることによって
自らを改善しなければならない
と説きました。

 学ぶことは自分勝手な学問ではものにならず、
信頼できる師の下で体系的に学び、
かつ正しい礼を学んで身に付けた君子を目指さなければならない
と説きました。

 荀子さんにとっての君子とは、
礼法を知って社会をこれに基づいて指導する者である
と言うわけです。

荀子さんは、この学ぶ理由として、
人間の性を「利己的存在」と認め、
学問を修める後天的努力」ことによって修正して
善へと向かうものであると考えました。
この性悪説の立場から、
孟子さんの性善説を荀子さんは批判したわけです

 これは、いくつかの章に分けて説明していますけれど、。
一貫して荀子さんが述べているのは、
いにしえの時代から受け継がれた「礼」の中に、
国家を統治するための公正な法の精神があると考えました。

 つまり、国家の法や制度は、
「礼」の中にある精神に基づいて制定されるべきであるとしています。。
荀子さんは、王者の政治の仕組みのあり方を

「人」=輔佐する人材、
「制」=礼制、
「論(倫)」=身分秩序と昇進制度、
「法」=法律を制定する

荀子・勧学篇

 君子は礼を身に付け、法に従って統治し、
法が定めない案件については礼法の原理
に基づいた判断を適用して行政を執る事が望ましい
と説いたわけです。

正しいとは・・なに?

 荀子さんが「性悪説」を主張したのは、
社会や国家には秩序が何よりも必要であり、
それは常にブラッシュアップして鍛え上げるべきものなのだ。
という考え方でした。

 次回はもっと噛みくだいて両者を比較しながら
考えてみることにしましょう。

CONTINUE


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