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雪国の人ならすべからく実感することですが、天気予報の画面に「雪」マークが見えると、なんとなく諦めというか、憂鬱とまでは行きませんが、少し気分が重くなります。
そう、あの、「雪かき」のシーズンが到来したと実感するからです。
雪国の人々は、冬になれば、積雪数十センチなんてざらですから、当然のこと雪と共存していかなくてはならないわけです。
しかしながら、この作業は必要不可欠でありながら、実に不毛で生産性がない作業であると言えます。
すなわち、波打ち際で砂の城を作ったり、砂絵を描くにひとしい、言ってみれば「徒労」です。
雪は春になると、跡形もなく融けてしまします。かといって、そのままししておくと、生活が立ちゆかなくなります。ムダだとわかっていながら、やらざるを得ないわけです。
そういえば、これに似たような話として、「地蔵和讃」というものを聞いたことがあります。
どんな内容かと言えば、地蔵菩薩の功徳を謡したものなのですが、言ってみれば「賽の河原」のお話です。
父母より早逝した子供たちは、三途の川を渡ることなく賽の河原に留まります。
そして、自分の親兄弟の悲しみを慰めるため、河原の石を一つ一つ積んでいきます。
そうして満願叶うと、ようやく三途の川を渡ることができるわけです。
だから、子供たちはせっせせっせと供養の石を積むわけですね。早く死んでしまったためにやれなかった親孝行など、その償いの印として石を積むのです。
なんとも健気な話なのですが、実はこの賽の河原とは、浄土と地獄との交差点でありまして、川向こうは浄土ですが、こりら側は地獄の入り口でもあるのです。
だから、閻魔大王の名代として、賽の河原にうろつく亡者たちに、その罪深さに対して、にらみをきかせます。当然ながらこれら幼子といえども容赦はありません。
せっかく積み上げた石積みを、この形は良くない、功徳が足りないと言いがかりを付けて、木っ端みじんに崩してしまうのです。
またやり直しをしなければならない幼子は、またせっせと石を積む。それを見守って慰め励まして回るのが地蔵菩薩である。というお話です。
いくら雪かきしても、雪国はあっという間にそれを無に帰してしまいます。ひどい場合は1日中雪かきに追われることもしばしばです。
雪って、春には必ず融けるのに、なんという徒労だろう。しかし、いま目の前に溜まった雪をなんとか除けなければ日々の暮らしはままならないのです。
黙ってほうっておいても、融けて無くなってしまうのに・・。
やはり続けるしか無い。だけど、追い打ちをかけて賽の河原の鬼のように、一晩でその労力は無に帰ってしまう。
必ず死んでしまうのに、人はなにゆえ生きていくのだろう。という問にも似ています。
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ですが、綺麗に雪を掻いたあとの爽快感や達成感は、このうえも無い快感でもあります。朝起きて窓の外を見たとき、あたりが白かったらそれを目指す覚悟もできるのです。
大自然の気まぐれに、あたしたちは「応変」して関わるしかない。それがわかれば、慌てず付き合っていけるものなのでしょう。
マメに雪かきしていれば、その分雪解けが早まるのは事実です。
賽の河原の幼子が、「そういうものなんだな」と思ったときに、鬼はそれを崩すことなく、そっと「六文銭」をそこに置いていくのかもしれません。