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悟った瞬間に悟った事実はなくなる
はじめにおことわり
信仰の自由ですから、あたしは、まぁいわゆる「カルト」にハマる人々に対しては。是非についてとやかくは言わないし、見解を述べよとか、論議をふっかけられたときには、議論には応じないのがあたしの主義です。これは念のため、始めに申し上げておきましょう。
あくまでもあたしの個人的な見解として、解説をお聞きください。
般若経典では、あらゆる物は実体がない「空」であるという前提で、その観点から見ると「こうだ」という説明をしています。
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得
(空という視点では)現象そのもはないから、それよって生じる様々な思いや行動、意識もない。それを生じさせる目鼻耳といった感覚器官もない。だから見るもの聞くもの味わうもの触れて感じるものもそもそもないのである。
したがって、目に見える物から感じる心に至るまですべてないということになる。であるから、迷いはそもそもないし、ないものである迷いがなくなることもまたない。老いて死ぬこともないし、ないものである老いて死ぬことがなくなるということもない。
であるから、真理そのものがないので、それから逃れる道すらない。すなわち、「悟り」自体も永遠のものではなく変化するから「ない」のである。悟ったという事実自体、得た瞬間に持てるものではなく、次の瞬間になくなってしまうのだ。
きわめて難解なロジックではありますが、言葉ではなく、「空」というものを「観じた」時には、こんな感じなのかな。あえて言葉にすると「我を忘れた」とでも言いましょうか。
アスリートが結果出すときは、案外こんな感じなんではないのかな。とも思います。
「もう一度再現してください」と言っても、できるものではない。「悟り」と言うことは、案外こんな物なのではないでしょうか。
すなわち「悟り」そのものも無常であるわけです。
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やった者しかわからない感覚。で、それは忘れないけど再現できない。
もはや言葉や文字では表せないものですね。
正解はなく、己が感ずるのみ。しかし、誰かに強いるものではないし、群れて何かをあがめる必要もないとふと感じた次第です。「悟り」を切り売りして、こうすれば救われる。というロジックには、当然違和感しか感じ得ません。
あたしが「教祖様」というものに全く興味を示す気にならないのは。「真の悟りとは悟らずに悟る悟り。悟った悟りは偽りの悟りだ」というロジックが軸にあるからです。