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独坐大雄峰とマウンティング

今回は「禅の公案」の紹介から始めましょう、出典は「碧巌録」という公案集です。とりあえずは、読んでみてください。

ある僧が、百丈懐海に尋ねた。
「仏法における奇特すばらしいの事とは何でしょうか。」
独坐大雄峰われがここにすわってることである。」
これを聞いた僧は、ひれ伏して礼拝した。
すると、百丈はその僧を棒で打った。

「碧巌録、第二十六則」

さていかがでしょう。

なんとなくわかるような、なんかちょっと違うかな?みたいな印象ではないかと思います。

「独坐大雄峰」という言葉は、山のてっぺんに俺一人いるぞ。みたいな印象を受けるのですが、実は「大雄峰」は地名であって、百丈懐海が住んでいる場所でもあるのです。

 だからちょっとややこしいというか、「大雄峰かっこいいに囚われてはいかんぞ」という仕掛けにも思えるのです。

 ですから、「いや、ここ大雄峰にぼっちで座ってる。」すなわち東京駅のホームのベンチに座ってる。みたいな意味でいいのかもしれないのです。

 さて、そこで一ひねりです。では、それを聞いた僧は、なにゆえ平伏したのかということです。

 一見、「俺は偉いのだ」という権威に平伏したように感じます。すなわち、「大雄峰」という権威が「素晴らしい」ということだと認めたということですね。

 だから百丈は馬鹿者め!と棒で打った。

 そう解釈することも可能です。
 すなわちわしは「マウンティング」したわけではないぞ!と戒めたのだ。とも捉えられます。

 しかし、よくよく考えたら、この僧は「大雄峰」に住んでいる百丈に尋ねたわけです。だから、自分も「大雄峰」に住んでいるわけですよ。
 だとしたら、この僧はそれがわかっていて、わざと平伏したのかもしれない。という風にも思えるのですな。

 百丈に対する答えともとれるし、自己アピールであるともとれるわけです。すなわち、本来「自分も主人である存在=独坐」が、平伏したら、どのような扱いを受けるか。
 さぁ答えてみよという問を、逆に百丈に突きつけたとも言えます。

 しからば「打たれるそ!」

百丈はこのように返答した。こう考えると、ふむふむと いろいろ見えてきます。

 あたしたちは本来「独坐」であり、おのおのがそれぞれ「大雄峰」である。だから、卑屈になる必要がどこにあろうか。堂々と「独坐」で生きるが良いのだ。

 我は我、人は人で、本来同等である。しかしながら「同調圧力」やマウンティングに囚われると、このように棒で打たれるのだぞ。ということが納得できる内容ですね

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