【映画レビュー】『ゼイリブ』~他にも道があるはずだ~
汽笛とともにオープニングのタイトルバックに浮かび上がる「THEY LIVE」の白いロゴがそのまま鉄橋の落書きとなり、不穏なサウンドとともにキャメラは右から左へとパンしていく。その真逆の方向に画面を横切る貨物列車の陰からネイダ(ロディ・パイパー)があらわれ、あたりに目をやりながら線路を縦断し奥から手前へとゆっくりと歩いてくる。この印象的なオープニングショットは、「THEY LIVE」というエクリチュール(文字)がこの映画の説話論的な構造を支える聖痕として書き込まれたことを示すとともに、歩くこと、見ることというこの映画における特権的なアクションが全て出揃ったマスターショットにもなっていることがわかるだろう。
バックパックを背負って歩く、プレカリアート(不安定な労働者階級)であるネイダと資本主義の象徴である高層ビル群をローポジションのキャメラによる同一の画面におさめたディープフォーカスのフレーミングは、相補しあう貧富の格差の表象を不気味に提示している。さらにキャメラはバックパックを背負ったネイダの後ろ姿からうす暗い空に霞んで聳える高層ビル群へとパンアップした後、空を見上げるネイダのミディアムショットから高層ビル群の仰角ショットへと往還し、ネイダが資本主義というシステムに西部劇におけるストレンジャーさながら侵入していく過程を鮮明に描いていく。
姿の見えない“THEY”にハッキングされたディストピアを描く『ゼイリブ』(ジョン・カーペンター、1988)は、70年代末にはじまり、世界中を席捲しつつあったネオリベラリズムの野蛮な現実を同時代性において、いち早く捉えようとした快作であり、ディストピアが地続きになりつつある現在において、その批評性はいささかも衰えていない。
本稿では、自由の実践として行使されるアクションたちが「歯止めの効かなくなった巨大な資本主義」(ジョン・カーペンター)にどのように対抗していくのかを分析することとしたい。
1.資本の「支配と統治」を射抜くショット
野宿をしているネイダが見上げる夜空や昼間のキャンプ地の上空の青空を旋回するヘリコプターのショットがたびたび挿入され、キャンプ地にたむろする、社会に取り残されたような人々が不安な世情の噂話をする背後に不気味なプロペラ音が鳴り響いている。双眼鏡で覗いた夜の教会のネイダの主観ショットがパンアップされ、旋回するヘリコプターのショットへと切り替わる。プロペラの爆音が全面化され、パトカーのサイレン音が鳴り響き、これらの爆音が暴力の導火線を点火したように、武装警官がキャンプ地の傍の教会を取り囲む場面へと続いていく。「発煙筒を焚き横並びで住民たちに襲い掛かる武装警官たち」や「住民たちを蹴散らして家を押しつぶしていくシャベルカー」の野蛮な暴力をとらえた短いカットの連鎖において、夜空から地上をライトで照らし、爆音をたてて旋回するヘリコプターのショットが度々カットインされる。この旋回するヘリコプターは姿をみせない“THEY”の形象にほかならない。取り残された人々である「逃げ惑う住民たち」がフォーカスされることはなく、個々の顔は画面から排除されたままである。
共有地であるキャンプ地が踏みつぶされていくこのシークエンスは、資本主義の起源である「資本の本源的蓄積」を想起させるものだ。「資本の本源的蓄積」とは共有地(コモンウェルス)を囲い込み、その生活を破壊して「人間の大群が突然暴力的にその生活維持手段から引き離されて無保護なプロレタリアとして労働市場に投げ出される」(カール・マルクス『資本論』)ことである。つまり、資本主義の生成に伴う収奪の歴史を再現しているのだ。また、この資本主義社会が武装警官という物理的な強制力としての暴力によって守られていることも明らかにしている。
一方、「小窓から見えるテレビを称賛する女性が映ったテレビ画面」VS「それを見ながら野宿するネイダ」、「ファッションショーのテレビ画面」VS「その声が流れる中でキャンプ地の残骸をひろい集める人々」といった、無害な放送を垂れ流すテレビ画面VS貧困層という構図のクロスショットが何度も反復されている。階級分裂の隠蔽をアイロニカルに召喚するショットが多用されているのだ。それは、寡頭支配を告発する海賊放送に「頭が痛い」とキャンプ地の住民たちの気分が悪くなる場面にも認めることができる。無害なテレビ放送は階級分裂という現実の裂け目から貧困層の意識を逸らさせ、知覚を剥奪し自発的な服従を強いているのだ。
ネイダが武装警官たちに襲撃された教会に入り、破壊された海賊放送局の残骸と寡頭支配を告発するスローガン「THEY LIVE,WE SLEEP」が消された壁を確認するシーンは、知覚を剥奪し自発的な服従を強いるテレビ放送が武装警官の暴力によって保証されていることの必然性を端的に示す場面である。
そして、ネイダのサングラスをとおしたモノクロの主観ショットに映しだされる、「命令に従え」「結婚し、出産せよ」「消費しろ」「考えるな」「8時間働け」「8時間眠れ」「8時間遊べ」「買え」「テレビを見ろ」「眠っていろ」「お上に逆らうな」といった街にあふれる広告媒体に潜むサブリミナルメッセージは「享楽(エンジョイ)せよ!」という超自我の命令であり、人々の享楽を手懐けていく狡猾な手段でもある。人々にもっとエンジョイすること、永遠にエンジョイ (消費)しつづけること、つまりは依存症的な「享楽(エンジョイ)」を要請するのだ。貧者たちは知覚することの機能を剥ぎ取られ、「まがい物としての剰余享楽」(ジャック・ラカン)である大量消費向け商品を際限なく追い求めさせられることになる。
こうして、キャメラは「武装警官、テレビ放送、広告媒体」という物理的な装置が三位一体となって、グロテスクな資本主義社会の「支配と統治」のホイールを回転させていることを徹底的に暴いていくのだ。 ここにおいて、姿を見せない空虚な入れ物である“THEY”とは資本のメタファーでもあり、映画のファーストショットに浮かびあがる「THEY LIVE」とは資本が生き続ける=無限の自己増殖を続けることの喩にもなっていることがわかるだろう。
2.歩くこと~階級分裂を喚起するアクション~
路上には雨をしのぐためにダンボールを頭にのせた、社会からはじき出されたように仕事にあぶれた人々がたむろしている中を画面の奥からネイダがあらわれ、ゆっくりと歩いてくる。職業斡旋所でやる気のない事務員に働き口のないことを冷たく告げられ、公園の中を途方に暮れたように、画面の奥から歩いてくるネイダ。いずれも、シャロウフォーカスのキャメラで捉えられたそのショットはプレカリアート(不安定な労働者階級)の孤高性も際立たせる。
このように、ネイダは冒頭のシークエンスでもみられたようにひたすら「歩くこと」を強いられている。それは、バックパックを背負って自らの労働力を売り歩かざるを得ない「流動的下層労働者」であることとも密接に関係しているのだろう。ネイダの存在は資本主義にとって、そのシステムを支える剰余価値を生み出す労働力を売り歩く者であるとともに、そこから剰余価値を搾取しているという不都合な現実を露わにする「喉にひっかかった小骨」のような存在である。システムになくてはならないものであると同時にその透明な完成を妨げるような存在。映画のファーストショットに浮かびあがる「THEY LIVE」を再び取り上げてみよう。それは、この映画に書き込まれた、トラウマ的なエクリチュール(文字)であり、鉄橋の落書きとして消されることなく残る、そのシステムの外部性の痕跡、残余である。そして、この外部性の痕跡は、キャメラが「THEY LIVE」の落書きのある鉄橋からネイダへと切れ目なくパンすることにより、その身体へと引き継がれ、ストレンジャーである彼がシステムの中を歩きまわることによって、そのあちこちに綻びを生じさせることになるのだ。
ネイダがフランク(キース・デイヴィッド)に連れてこられた様々な出自の人々が暮らす、キャンプ地に隣接する教会とその背後に浮かぶ資本のファンタジーとしての高層ビル群を同時にとらえたディープフォーカスのショットはネイダがキャンプ地を歩きまわるアクションによって、何度も執拗に挿入され、資本主義がもたらす階級分裂を画面の同時性においてコントラストに描き出す役割を果している。
それはまた、相似した構造を有する画面の反復においてもみられるものだ。冒頭の仕事道具の入ったバックパックを背負ったネイダが雑草の生えた道なき道を歩いていくシーンは、ホリー(メグ・フォスター)に窓から落とされ、バックパック=仕事道具=生産手段さえ持たない「完全に自由な労働者」となったネイダが橋をとぼとぼと歩いていくシーンとして、いずれも高層ビル群を背景にディープフォーカスでとらえられたショットによって反復されている。また、ネイダが動物やレジャーに興じる若者たちを映す店頭のテレビモニター群を凝視する黒人の若者の後ろを画面の奥から歩いて通り過ぎるシーンは、「完全に自由な労働者」となったネイダ自身が犯罪者として画面に映しだされた店頭のテレビモニター群の前を画面の奥から歩いて通り過ぎるシーンとして反復されている。それらは、階級分裂という現実の裂け目を増幅させるショットとして回帰しているといえるだろう。
以上のように、この映画においては歩くというアクションが焦点深度を駆使したキャメラワークにより資本主義の裂け目である階級分裂を明るみにするショットを生み出しているのだ。歩くことはその後も、ネイダがサングラスを付けて路上を、銃を持ってテレビ局内を歩くことによって、システムを攪乱し内破していくモメントとなるだろう。
3.見ること~階級分裂を知覚するアクション~
「我々の目から真実を隠した」「誕生から死までを管理する連中がいる」と演説する盲目の宣教師の存在は、「見ること」がこの映画にとって重要なアクションであることを示唆している。
冒頭の空を見上げるネイダのミディアムショットと高層ビル群の仰角ショットのカットバックは、その後も他人の観ているテレビを見ること、夜空を旋回するヘリコプターを見上げること、教会に潜入して内部を見ること、盲目の宣教師とレジスタンのやりとりを立ち見すること、双眼鏡で教会を覗きみること、武装警官がキャンプ地を蹂躙する様子を眺めることといった、「見ること」の身ぶりとして執拗に繰り返される。
しかし、繰り返される「見ること」の身ぶりにも関わらず、ぼんやりと浮かぶ高層ビル群を背景に、貧富の差による不公平や過酷な現実を嘆くフランクをなだめて、「もっと気楽に生きろ。俺はアメリカを信じる」と言うネイダをとらえたシャロウフォーカスのショットは、ネイダ自らが資本主義というシステムのストレンジャーであることに無自覚なままであり、何も見えていないこと、知覚は剥ぎ取られたままであることを映像のレベルで示しているものだ。逆に教会に忍び込んだネイダの顔をまさぐり、手の感触から労働者であることを識別する盲目の宣教師は、目が見えないにも関わらず、資本主義社会を動かす「支配と統治」の実態を見抜くことができるのだ。
忍び込んだ教会で製造中のサングラスをたまたま見つけたものの、教会の壁に書かれた「THEY LIVE,WE SLEEP」の意味さえ理解できなかったネイダは「自分の本姓に適い自分と組み合わさるものとなるような相のもとでそれらと出会えるように努力すること」(ジル・ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』)、つまり、サングラスと出会い直す必要があったのだ。
サングラスを手にして路上を歩くネイダのフルショットが、サングラスをかけるアクションによって路面を映したモノクロの主観ショットに代わり、サングラスをかけて/はずして見るネイダのクローズアップにカラー画面の広告媒体とモノクロ画面のサブリミナルメッセージの文字という彼の主観ショットが交互に挿入されていく。続く、人間に擬態した“THEY”と遭遇するシーンにおいても、サングラスをかけて/はずして見るネイダのクローズアップにカラー画面の人間の顔、モノクロ画面の面の皮を剥ぎ取られたような顔というネイダの主観ショットとのカットバックが繰り返される。さらに、サングラスをかけ、街の光景を見ながら歩いていくネイダのショットに多くの“THEY”が普通に生活する様子を映した、彼のモノクロの主観ショットが交互にカットインされる。
このサングラスとの出会い直しのシークエンスは、クローズアップによってトラウマ的な効果を生み出しており、キャメラは「見ること」を二重化し、街にあふれる広告媒体や人間に擬態した“THEY”を「イデオロギー(虚偽)」として知覚するアクションを映像の次元で的確にとらえている。まさに認識論的切断によって見えなかったものを白昼の光の中で見出す様を描いた圧巻のモンタージュであろう。
また、サングラスをかけるアクションは、システム内の見る者(傍観者)でしかなかったネイダを、システムを内破していく見られる者(行動者)へと変貌させるアクションともなっている。それは、ネイダが人間に擬態した“THEY”とぶつかるという物理的な接触以降、モノクロの“THEY”とネイダとのカットバックが多用されていることからも明らかだ。この見る者(傍観者)から見られる者(行動者)への変貌とは、知の機能を剥ぎ取られていた者から知覚する者への変貌でもあり、資本主義の裂け目である階級分裂を知覚することが、自由の実践としての次へのアクションを強いるのだ。
サングラスをめぐっては、遠心力と求心力という異なるベクトルを持った2つの肉体的なアクションが惹き起こされていることにも着目しておこう。
一つはネイダとTV局に勤務するホリー(メグ・フォスター) の間に起こるアクションである。ホリー(メグ・フォスター)にサングラスを促したネイダは、「あなたのサングラスで見ても、自分で見たことにならない」と拒否され、続く俯瞰ショットにおいて、くるりと体を時計回りに回転させて遠心力を働かせた彼女の右腕に後頭部を殴られ、体ごと窓ガラスを突き破って落とされることになる。警察に電話するホリーのカットから、その視線の先につなぐように床に落ちたサングラスのショットが挿入される。ホリーはネイダと対照的にサングラスと出会い損ねるのだ。このアクションが遠心力となり、映画のラストシーンのホリーの行動を規定しているとみなすこともできよう。
もう一つはネイダとフランクの間に起こるアクションである。サングラスをかける/かけないことを賭してお互いの全身の肉体を駆使した5分半に及ぶ格闘の末、ネイダがフランクにサングラスを無理やりかけさせる、迫真のシークエンスだ。この時間の長さは「見ること」を二重化し、「イデオロギー(虚偽)」を知覚するためにどうしても必要なハードルだったのだ。グロッキー状態で横たわるフランクがネイダに無理やりサングラスをつけさせられ、頭を抱きかかえられて資本主義のグロテスクな現実を見せられることによって、その構造のなかでの自らの位置をトラウマ的に知ることができるのだ。また、このぶつかり合うアクションが作り出した求心力がネイダとフランクや他のレジスタンスたちとの新たなアソシエイト(結びつき)を始めることを可能にもしているはずだ。
4.蜂起は無駄なのか?
人民は蜂起する。それは一つの事実だ。
ミッシェル・フーコー『蜂起は無駄なのか?』
格闘の後、ボロボロになったネイダとフランクがたどり着いたホテルの部屋で闘争戦略の不可能性を激論する切り返しショットは、二重に知覚することによって明らかになった“THEY”にハッキングされたディストピアの世界に対して為す術などいっさいないという「耐え難さ」をそれとして認識する重要なシークエンスとなっている。一方、フランクが所有していた腕時計が偶然にも地下への脱出口を作り出すというシーンは、にっちもさっちもいかない状況におかれることによって、この「耐え難さ」に強いられて逃走線が引かれ得ることを証明している。「脱出と逃亡する手段なしにいかなる権力関係も存在しえない」(ミッシェル・フーコー『主体と権力』)ということだ。
レジスタンスの秘密会合が武装警察によって圧殺され、追い込まれた路地での銃撃戦における、「ネイダとフランクの主観ショットであるモノクロの面の皮を剥ぎ取られたような顔」→「機関銃を乱射するネイダとフランク」→「客観的ショットであるカラー画面の人間の顔」のカットバックサイクルにも注目しておきたい。サングラスからコンタクトへと知覚のためのデバイスが進化して以降、サングラスをかけて/はずすというアクションがもたらす主観ショットにおける「見ること」の二重化は後退したが、「イデオロギー(虚偽)」を知覚するモノクロの主観ショットの持続性を担保するために同アングルのカラーの客観的ショットが導入されているのだ。
ネイダとフランクはテレビ局の地下基地に逃げ込み、“THEY”との銃撃戦を繰り広げながら、人間を支配する信号の発信機を破壊することを目指して屋上へと向かう。機関銃を携えてテレビ局の廊下を歩いていくフランクとネイダはまさに、システムを踏破していくアウトローだ。自由の実践としてのアクションが全面的に展開し、細長い廊下で区切られたテレビ局の条理空間を平滑空間に変容させていくシークエンスをキャメラは滑らかにとらえてみせる。このテレビ局内での銃撃戦においては、“THEY”をとらえるショットはモノクロの主観ショットではなく、カラーの客観的ショットがほとんどの画面を支配することになるため、映画の観客には人間と“THEY”との区別をつけることはできず、フランクとネイダのアクションによって見分けるほかはない。われわれも彼らとともに知覚することが求められているのだ。
ネオリベラリズムを凝縮した、マーガレット・サッチャーのスローガン「この道しかない」が抵抗方法をめぐるレジスタンスたちの議論の中での「他に選ぶ道はないんだ」というネガティブな言葉として反響していた。しかし、その言葉は「歩くこと」/「見ること」というアクションを経て、屋上へと向かうネイダの「他にも道があるはずだ」というポジティブな言葉として再帰していることを見逃さないようにしよう。
また、ネイダはある種の消え去る媒介者でもあったといえよう。発信機を破壊することによって、カラーの画面に面の皮を剥ぎ取られたような顔の“THEY”が現れ、人々の「見ること」を二重化させ、「イデオロギー(虚偽)」を知覚させることに成功する。一方で、ネイダはそれと引き換えに消え去る=死ぬことになるのだが、中指を立てる最後のアクションは来るべき「一つの民衆=人民(ピープル)を創り出すこと」(ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』)を指向しているのではないだろうか。蜂起はもちろん無駄ではなかったのだ。
ネイダとフランクが知覚を二重化することによって、自らの生き方=アクションそのものを自由の実践として行使し、「歯止めの効かなくなった巨大な資本主義」が暴走する世界を勇気を持って横断しようとした、映画『ゼイリブ』とは、現実のアソシエイトした諸個人の資本への対抗運動の一環にほかならないのだ。
2019年10月18日
クレジット
原題名:THEY LIVE
監督:ジョン・カーペンター
脚本:フランク・アーミテイジ(ジョン・カーペンター)
編集:ギブ・ジャフェ、フランク・E・ヒメネス
出演:ロディ・パイパー、メグ・フォスター、キース・デヴィッド、ジョージ・“バック”・フラワー、ピーター・ジェイソン、レイモン・サン・ジャック、ジェイソン・ロバーズIII世
プロデューサー:ラリー・フランコ
エグゼクティブプロデューサー:シェップ・ゴードン、アンドレ・ブレイ
撮影:ゲイリー・B・キッブ
美術:ウイリアム・J・ダレル・ジュニア、ダニエル・A・ロミノ
音楽:ジョン・カーペンター、アラン・ハワース
配給:東宝東和
合同会社是空(製作30周年記念HDリマスター版)
(1988 / アメリカ / 96分)