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主体的な学級づくりにおける3つの重要ポイント

今年度、校内の若手に向けての研修で話した内容をシェアする。
「親切」が過ぎてついやりがちな「下手うち」を減らすための話である。

主体的な学級づくりにおける重要ポイントとして、次の3つを挙げた。



1「やってあげるな」

これは

子ども(保護者)が「自分でできる」ことは、極力やってあげない


ということである。

(保護者)と書いたのは、保護者に対しても同様のことがいえるからである。
何でもやってあげる学校や教師は、余計な仕事を増やすだけでなく、保護者をも依存的、他責的にさせる。
何でもやってくれる学校においては、子どもの全ては何でも学校のせいということになる。
結果、学校教育における子どもの最高のサポーターであるはずの保護者を「批判者」に変貌させてしまう可能性が高まる。
つまり保護者の側が本来批判的なのではなく、学校のそもそもの姿勢が悪いからという可能性も大いにある。

逆に言えば明らかに相手が「自力でできないこと」については、ためらわず手出し口出しするべし、ともいえる。
一年生ではしてあげることが多くなるのは仕方がない一方で、いつまでもそれをやってあげ続ければ6年生になってもできないままになる。
わかってきたら少しずつ自分でやらせてみて、徐々に手放していくのがコツである。
「自分でできる」という項目を増やせるほど成功である。

家庭教育の場合でいうと、例えば朝自分で起きるということである。
これは、本来子どもが自分でやれること、やるべきことである。
「起きなさい!」などと言って朝から子どもと格闘するのは、間違えている。
これでは、子どもが依存的・他責的になって、いつまで経っても子どもが自分で起きられるようにならない。
朝起きて学校に遅刻せずに行くのは、子ども自身の人生の課題である。

自分でできるようにさせるとは、自由にさせるということと同義でもある。
イメージとしては、子どもにひもを括りつけてぐいぐい引っ張るのではなく、枠を作ってその中の自由を保障するよう心がける。
自制がきいて責任を取れそうな範囲の枠組みを示し、その中で子どもが自由に活動できることが大切である。

2 ルールは「なくす」を目指して作れ

ここについては、前提として

「集団の絶対ルールを大原則一つに絞る」


という提案をしている。

私の場合それは「人を傷つけない」である。
「人」には自分自身と他者の両方が含まれ、「傷つけない」は心身の両面が含まれる。
よって、自他ともに危険な行為はもちろん、他者の心身に危害が及ぶ行為には躊躇なく注意及び制限を加える。

その上で、生活上の必要に応じてルールを作ることもある。
そして新たに作ったルールは常に「なくす」を意識する。
そのルールがいつか不要な状態となり、自由になることを目指していく。
自由、つまりは「自らの責任のもとで適切に行動をコントロールできる状態」に指導していく。

一方で「廊下を走らない」が学校ルールからなくならないのは、どの時代においても適切なコントロールが期待できないためでもある。
子どもは(大人も?)、廊下を走る生き物である。
しかも、自分だけは例外的に絶対に大丈夫だと疑わない生き物でもある。

つまり、放置しておけば先の「人を傷つけない」の大原則から外れることになる。
わざわざ制限をかけないと生活に支障が出るようなことは、どうしても最低限のルール化が必要となる。

学級単位ではなく、学校というような大集団であれば、安全以外にも厳密なルールが必要になる。

例えば、現状の学校システムにおいて、時間に関するルールは多い。
登校時刻と時間にルールがなければ、学校生活自体が成立しないのは自明である。
朝6時に来られても困るし、10時に来られても困る。
給食の時間も同様で、色々と心苦しいが、食事には制限時間を設けざるを得ない。

ただ、学級というような自由度の高い集団においてのルールは、基本的に少ない方がよいのは間違いない。

3 真面目優先の原則


ここについては、禁止事項として次を挙げた。

「目立つ子」に最優先で関わりすぎるな。

「他と違う部分」は目立つので、どうしても着目して即解決したくなる。
真っ白い大きなシーツ中の「点」である。
大部分を占める白い面積よりも、そちらが気になって仕方なくなるのが本能である。

ただしそこは「ないものねだり」であり、最優先事項ではない。
人生でも何でもそうだが「できているところに着目する、あるものに感謝する」が基本である。
最も恐れるべきは、真面目な子ども(協力層・上位層)の離反である。
まずはきちんとやっている子どもを見て、認める、褒めるのが最優先事項である。
真面目層に中間層が引っ張られれば、結局全員が全ての層に対して互いに協力的になり、助かることになる。

「目立つ子」へは、表で関わりすぎず、陰で褒める、叱るのが原則である。
みんなの前で叱った場合、周りの子どもは納得するが、本人に対しては陰でのフォローが必要になる。
「いつも自分ばっかり」という、本人にとっては「不当な」被害者意識に固まっているからである。
(圧倒的に不適切な行為をする回数が多いのだから、注意や叱られる回数が多いのは当然であるが、これらの子どもはそれを心情的に納得できない。)

一方、誰かをみんなの前で褒めるのは、周りから見ても明らかに特別に良い行動と思われる場合に限る。
そうしないと「私もやっていたのに全然見てもらえない」とか「先生の言うこと聞かない方が得」と思われる可能性が高い。
ただでさえ「よくできる子」と「手のかかる子」を「褒めてしまう」「かわいがってしまう」という教師ならではの性質を自覚しておく必要がある。

真面目な大多数を優先し、「ボス級」を相手にするのは緊急回避の事態以外は、最後でよいということである。

もちろん、他者を傷つけている場合は、やられている相手の安全・安心確保が最優先になる。
なぜならば

「真面目最優先」


だからである。
それは手のかかる子どものためというより、周りの子どものためである。

周りの子どもが、学級集団に対し「守ってもらえる」「安全・安心だ」となると、他者への関わり方自体が変わる。
該当の子どもに対しても、優しくなる。
結果的に、難しい、手のかかる子どもも変容する。

これら学級づくりへの3つのポイントは、恐らく社会におけるあらゆる集団に適用できる。
読者の皆様には釈迦に説法かもしれないが、「参考」程度になれば幸いである。

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