見出し画像

夏葉社の本と署名

もう十年ほど前になるか、昔からある地元の小さな本屋さんのおばちゃんに『本屋図鑑』を勧められて読んだことをきっかけに夏葉社という出版社を知った。

東京・吉祥寺で島田潤一郎さんという方がひとりで営む出版社である夏葉社は、「何度も、読み返される本を」をスローガンに掲げてひとつひとつの作品に丁寧に向き合って本づくりをされている。

出版といえば講談社や集英社などの大手しか知らなかった当時の僕にとってひとりで出版社をやっているということ自体が驚きであったし、実際に夏葉社の本を手に取ってみてモノとしての存在感に感心した。大切に読みたくなる、読んだ後には大切にしまっておきたくなる、そしてそっと手に取って読み返したくなるような本だった。
実際、ある冬の温泉旅行には『冬の本』を持って出掛けた。温泉に浸かったあとの弛緩した体で畳の上にごろ寝して本を読むというのは、それは贅沢な時間だった。

そんな夏葉社の本のなかに『昔日の客』という随筆集がある。

かつて東京・大森にあった「山王書房」という古本屋の店主・関口良雄が古本屋に訪れる客や家族のこと、若き日に知遇を得た文士との交流について綴った名随筆集を復刊したものだ。
元の本は昭和53年(1978年)に三茶書房から刊行された。

十年前に夏葉社を知った頃に読み、その後も定期的に読み返している。
はじめて読んだ当時は名前も知らなかった作家、名前は知っていても作品を読んだことのなかった作家たちを少しずつ知っていくことで「ああ、あの先生ならいかにもそんなことを言いそうだ」とか、「あ、この風景はあの先生の小説に出てきたあの風景なのだろう」と思えることが増えていく、僕にとってはそんな本だ。

同時に今の時代に失われたものが詰まった本でもある。どこか懐かしく埃っぽいのだけど落ち着くような空気が文章から立ち上ってくるのだ。
昭和生まれ平成育ちの僕が体験したことのない昭和に対してノスタルジーを感じるというのも不思議な話ではあるが、たぶんデジタル以前の空気感を知っているすべての人が似たような感覚を得られるのではないかと思う。

作中の関口さんは酒癖が悪く怒りんぼで思い込みが強い。しかし基本的には善意で動いていて、何より本への愛情が強い人だ。そんな関口さんが描く文士たちは時に豪快で、優しい。
普段本を読んでいるときには、その中で繰り広げられる悲喜交々に夢中で、例え私小説であっても作家自身のことを忘れてしまうことが多々ある僕のような読者にも、関口さんの目を通した文士の姿はくっきりとした輪郭を持って見えてくるとでもいうのか、ちょっと不思議で嬉しい体験だ。恐らくこれからも何度も読み返すだろう。


他にも夏葉社が刊行している本は魅力的なものが多いし、島田さん自身が書かれた『あしたから出版社』(晶文社)や『古くてあたらしい仕事』(新潮社)なども非常に面白く、特に『あしたから出版社』は僕にとって大事な作品だ。今年の4月に出た『長い読書』(みすず書房)も面白そうなので近々読みたいと思っている。

実は『古くてあたらしい仕事』が出版された時期に夏葉社の本を教えてくれた本屋さんで開かれたイベントで島田さんのお話を聴いたことがある。車で一時間ほどかけてリュックに『古くてあたらしい仕事』を入れて行った。
15人程度が参加した小さなイベントの終わりに各々書籍に署名してもらったり話をしたりしていたが、1月の冷たい雨が降る日で、僕は本が濡れるのを嫌い車にリュックを置いてきたことにがっくりした。結局その本屋さんでまだ持っていなかった『山の上の家』を買い、島田さんの署名を入れてもらったのだが、同行されていた新潮社の担当者もちょっと笑っていたように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?