33:父の日の緑
5歳。
一年早く入園した同年代によって、すでにいくつかのグループが形成された状態の幼稚園へと通うようになった私は、慣れない日々に苦戦していた。
仲良しグループのなかに、自分も「加わりたくて加われない」のであれば、それはいわゆる、一般的な"引っ込み思案"のイメージだろう。
私の場合はそうではなく、基本的に「加わりたくない」人だった。
輪に入れないのではなく、すでにあるコミュニティに入りたくないのだ。
これは、得意ではなかったがゆえの負け惜しみを言っているわけではなく、はっきり苦手だった。
本当の仲良しではなく、派閥や仲良しごっこのようなものは、いまでも大嫌いだ。
「加わりたくて加われない」と「加わりたくない」。
両者は、似て非なるものだ。
いまにして思えばそうなのだが、幼稚園児に自己分析などできるわけもなく、私は"引っ込み思案"の大枠のなかに振り分けられていたと思う。
いずれにしろ、大騒ぎする子供が好きではないので、幼稚園における私の居場所は、ほぼないようなものだった。
そのため、行きたくない。なぜ行かなければならないのか。と母を困らせたことも一再ではなかった。
***
そんななか、閉鎖空間である幼稚園に、家族がやってくるのは救いだった。
外界との接点を得て、息苦しい閉鎖空間に空気穴が空いたような気分になる。
おそらく6月。父の日に合わせ、参観日があった。
工作の時間。
切りこみを入れた牛乳パックにトイレットペーパーの芯を組み合わせたペン立てを作った。
構造は先生の指示通りだが、そこに思い思いに折り紙を切って貼りつける。それを参観日でやってきた父親にプレゼントする、という催しだった。
この参観日が、よい思い出として記憶に残っているのは「個人でやること」だったからだというのが、いまだからこそわかる。
鼓笛隊や運動会のお遊戯、発表会でやる劇などは、集団でやることで、どれも好きではなかった。
モノ創りが好きな私は、やはりこのころから、すでに存在していたのだ。
それも、誰かとのチームプレイではなく。
一方、母の日の参観では、手ぬぐいで目隠しをして、ボールを取り合うようなゲームをした。
完全な球のボールではなく、転がっていってしまわないラグビーボールのようなカタチの玉だ。
どういう意図だかさっぱりわからないのだが、チーム戦で、よその知らない誰かの母と園児が順に呼ばれ、目隠し状態でひとつのボールを追う。
周囲を取り巻く外野から、右だ左だと無責任な声が飛ぶ。
私の苦手とするシチュエーションだ。
というかあれはもはや、社会の縮図ではなかったか。
思えば社会人になってからも、社長や上長が好き好きに言う、一貫性のない「右だ左だ」の指示に散々振りまわされた。それもある意味、目隠しをされた状態である。
耳を澄ませて売上や成果という名のボールを追うのだが、指示を出す者が無責任にわめき散らし、見当違いのほうへ向かわせる。
ボールを掴めなければ「動きが悪い」と責め、逆にどうにかボールを取ることができると「指示が正確だった」と自分たちの手柄にしてしまう。
幼稚園のころからすでに苦手だったのか、とあらためて思う。
私は自分の順番がこなければいいのに、と叶わぬことを願いながら、そのゲームの様子を見ていた。
***
話を父の日に戻そう。
渡された地図を見ながら父親と近所を歩く、スタンプラリーのようなことをやり、ゴールはいつもの幼稚園そばの公園だった。
なにかと催しのある公園なので、年齢ごとにさまざまな思い出がある場所だ。
そこで、牛乳パックで作ったペン立てを渡す。
このときの、父と向かい合った写真が、卒園アルバムに残っている。
立った私と、しゃがんだ父は目線の高さを合わせ、父は微笑んでいる。
私の表情は見えないが、きっと笑っていただろう。
かなりつたない仕上がりのペン立てである。
それを、父はまだ持っていた。
処分するタイミングはいくらでもあっただろう。
人のことはいえないが、なんとも物持ちのいいことだ。
私にはペン立てはないが、あの日の思い出がずっと残っている。
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