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9:夏空が誘う感傷

3歳ごろ。
このころになると、4つ離れた姉は小学生なので、夏休みの朝には近所の公園へ出向いていた。ラジオ体操である。

祖母と一緒に、私も連れられて行っていた。
私がみずから参加を望むはずはないので、早起きさせるための口実のようなものだったのではないか。
「姉は起きているぞ、いつまでも寝ているなよ」「早く起きないと、ラジオ体操に遅れるぞ」という名目である。
それなら、姉が3歳のころも起こしてラジオ体操に行っていたのか、という疑問が湧く。私は知る由もないが。
いかにも小さなことだが、そういう大人の理屈とでも呼ぶべき「理由になっていない」ことが、子供には大きな理不尽に感じられたりするものだ。
さして疑問に感じない子供もいるのかもしれないが、私はそういうことが気になるほうだった。

***

そういえば私は、朝に弱い。
寝つきが悪く、寝るのも好きではない。加えて夜はいつまででも起きていられるので、もともとの寝起きの悪さに拍車がかかり、学校に通うようになってからは特に、親に多大なる迷惑をかけた。
毎朝あまりにも起きないので、母の声が階下から何度も響き渡る。つい、いま起きるとこ感のある返事をしてしまう。返事をしているときは起きるつもりなのだが、気を失うようにまた眠ってしまう。
ついに階段をあがってきた母が雷を落とす、という流れだった。
いま思い返しても、本当に申し訳なかったと思う。
ただでさえ忙しい朝に。
母は早起きをして、家族の朝食や、高校や専門学校では毎日弁当を用意してくれていたというのに。

***

話を戻そう。

ラジオ体操は、近所の小学生が集まって行われていた。
このころの夏の朝は、しんと冷えた夜気が残り、家の外に出ると少しの湿度にしっとりと包まれ、瑞々しさのようなものを感じたものだった。

近所の公園は少しだけ特殊で、遊具はなにもなかった。
普段は少年のソフトボールや、幼稚園の運動場としても使われていて、地面からしてグラウンドを兼ねたような場所である。

地区には小学生が登校する際の「班」があり、その班のなかで上級生が班長となる。朝はその班長を先頭に、小学校まで並んで歩くわけだ。

その各班の班長が、公園中央の木立の前にこちらを向いて並び、班長以外は自分の班長の前に一列に並んで、体操をするようになっていた。
周囲にはPTAか当番なのか、役員の大人の姿がちらほら。
私は祖母と一緒に、少し離れた後ろで参加していた。

夏の青い空に、蝉の声がかまびすしい。
陽に照らされはじめると、じわりと暑くなってくる。
水捌けがいいように加工処理された硬い土の地面。
待っている時間を持て余し、靴裏で撫でるように転がす白い小石。
木立の周辺に生い茂る草の濃い緑。地を這うようなクローバー。
石のベンチ。ソフトボール用のバックネット。電線にとまる雀。
砂地に置き去られた、犬か猫の糞。くずかごの濡れた雑誌。
遅れて走ってくる少年。公園横の道路を走っていく車。

小学生たちは当然顔なじみで、ふざけ合っているような姿も、楽しそうに昨日のことを話している姿も、苦手だな、という印象で私の眼に映った。
いまでいうところのアウェーというやつだろうか。
疎外感とは異なる。疎外感には「本当はそこに加わりたい」という気持ちが内在するが、私は心底、加わりたくないのだ。

時間になり、代表者がラジオのボリュームを大きくする。
いま見れば、なぜそんなに大きいのか、中身になにが入っているのか、と考えてしまうような大きさのラジオ。ノートパソコンを入れるバッグくらいのサイズだった。

ラジオの歪んだ音声が、蝉の声に重なる。
気温があがってきて蒸し暑くなりはじめ、気怠けだるさが漂う眠い朝。
その雰囲気を掻き乱すように、ちょっと腹立たしいくらいに軽快な、ラジオ体操の前奏が流れる。3時間前に起きてずっとスクワットしてました、とでもいうような元気なオジサンの声がスピーカーから鳴り響く。

さて、以前の記事でも書いた通り、私は集団で同じ動作をする「お遊戯的」なものが大変苦手である。
ラジオ体操も、いまでは運動の効果があるとわかっているものの、3歳児には意味のあることだと思えていなかった。それを集まってまでやるのだ。家にラジオがあるだろうに、なぜわざわざ集まるのか、と思っていた。
いまでも集まってやるとしたらかなり嫌である。
3歳の私も、上辺を真似るような動きしかしていなかったと思う。
まず、人が集まっているところが苦手で、子供も苦手なのだから、やる気など起きようもない。しかも参加する理由があるとも感じていないのだ。

苦行の時間が終わると、姉を含む小学生たちは首にさげたカードにスタンプを貰い、家に帰る。スタンプも貰えない私は一体なにをしに来たのか、と思わなくもないが、とにかく早く帰りたい。
出かけたら早く帰りたいのが私。いまも変わっていない。

ラジオ体操から帰ると、夏休みの朝にやっていた子供向けの番組がテレビで流れている。

そんな風景が、幼いころの夏の日常だった。

***

この手記を書いているいまは、6月の終わり。
ひと月が経つころには、小学生は夏休みだ。
数日前から、蝉も鳴きはじめている。
蒸し暑く、窓からは白い雲の流れる青空が見える。

晴れた夏の空を見ると、無性に哀しい気持ちになることがある。
いつもではなく、ときどきだ。

かつての職場の休憩時間。
仮眠をとろうと自分の車でシートを倒したとき、不意に眼にした青空に、思いがけず涙がこぼれたこともあった。
疲れているのだろう、と誰にも話さずじまいだったけれど、あの涙はどこから来たものだったのだろう。

世間との最初の関わりが、あの夏のラジオ体操だったからなのか。
それは断定できないが、夏にかぎらず、哀しいほど晴れた空に打ちのめされることは、何度かあった。

あのころに感じたことを、私はずっと抱えたままだ。



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