『ボストン市庁舎』組織で働くすべての人に贈る4時間半の自己啓発映画
”良い仕事”を見せるノンフィクションはいつの時代も手堅いコンテンツだ。地上波テレビだけでも『情熱大陸』『プロフェッショナル 仕事の流儀』『セブンルール』などが思いつく。YouTubeやNetflixなど配信プラットフォームにまで目を向ければ無限に類似の番組を見つけられる。密着取材の相手が様々な困難に直面しながら”良い仕事”をしようとする。もちろん30分なり1時間の時間的制約のなかで、その人が携わっている仕事の全貌を捉えることはできない。それでも彼らの誇りを持って働く姿は見ているものをを励まし、自分を顧みるよう促し、ささやかな明日への活力を与えてくれる。こうした番組に自己啓発のような作用があるのは間違いないだろう。(※少なくとも私はそのように感じている)
フレデリック・ワイズマン監督による長編ドキュメンタリー映画『ボストン市庁舎』は”良い仕事”を見せる点でこれらのノンフィクション番組によく似ている。しかし4時間32分という異例の上映時間からも明らかなように、この作品は私たちがこれまで見たことのない視点でボストン市、ひいては世界中の市区町村が抱えている仕事の幅を提示している。
警察、消防、公衆衛生、福祉、教育、住宅、就労支援、公共事業、貧困問題、人種格差、ジェンダー格差、駐車違反、道路整備、交通整理、ゴミ収集、街路樹の剪定。こうした多岐にわたる通常業務に加えて、ボストンマラソンや地元野球チームのボストン・レッドソックス優勝パレードなど、大規模イベントにも行政は深く関わっている。
ワイズマンのカメラは市民が集まる場所にも出向いている。退役軍人が集まる集会で語られるイラクやアフガニスタンでの壮絶な任務や、先の大戦にまつわるエピソード。起業家が医療大麻ビジネスを立ち上げるために開いた住民説明会での激しい議論の様子。こうした光景は日本ではまずお目にかかることができない。
市役所が市民のために何を行っているのかを余すところなく伝えようとした本作。「この映画の主役はボストン市民」と言いたいところだが、やはり本当の主役はマーティン・ウォルシュ市長のように思える。混迷を極める2018年から2019年のトランプ政権下にあって、ワシントンと対立するリベラルな政策を打ち出し、「何か困り事があれば私のオフィスに電話して欲しい。街で見かけたら声をかけて欲しい」と市民に語りかける。人々の声を聞き、学び、導いていく。分断を乗り越え市民のために働く姿は”サーバント・リーダーシップ”という言葉がぴったりに思える。もちろん市長を支える側近たちも同じ理念を共有し、目指すサービスを市民に届けるべく対話を重ねている。これを”良い仕事”と呼ばすして何と呼ぼう。組織で働く人なら何かしらハッとさせられる場面があるはずだ。
興味深いのは映画が始まってすぐの、ウォルシュ市長を交えた会議シーンで言及される”カルロス・ヘンリケス”なる人物だ。「彼が部門を横断して課題を解決するためのコーディネーターの役割を果たすはずだった」と市長は語る。その人物の不在が今後の市政運営にとって大きな痛手であり、早急に穴埋めが必要であることが伝わってくる。
カルロス・ヘンリケスとは何者なのか。調べてみると40代の元州議会議員の名前が見つかった。2014年にセックスを拒んだ交際相手に暴力を振るったことで有罪判決を受け議会から追放されている。ウォルシュ市長は彼にセカンドチャンスを与えるつもりで特別補佐官の職を与えたようだ。一度失敗した人物でも再挑戦できる機会は必要だろう。市長自身がアルコール依存症の問題を克服した経験も関係しているのかもしれない。しかしカルロス・ヘンリケスが扱う業務の中に、コミュニティーの暴力問題に関わる政策が含まれていたのが致命的だった。その後の地元紙の追求も相まって彼は辞職に追い込まれている。あの会議シーンにはそのような文脈があったのだ。
どんな組織も財源や人材に限りがある。それはこの映画の冒頭で描かれる「税収の増額は見込めないため市の支出が収入を上回ることはできない」という事実からも明らかだ。すべての人の願いを叶えることも不可能だ。その一方で新自由主義的な手法で弱者を切り捨てることもできない。一時的な支持を集めるために耳障りの良いマニフェストで人々を欺くべきでもない。
それでも『ボストン市役所』で描かれた”良い仕事”は、世界中のどこに住んでいたとしても、自分が公務員であるかにかかわらず、私たち一人ひとりが身の回りの社会を良くしていくために必要なことだと思った。
カルロス・ヘンリケスに関するボストン・グローブ紙の記事↓
●作品情報 『ボストン市庁舎』(原題:Ctiy Hall)監督:フレデリック・ワイズマン 日本公開:2021年
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