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わたしの映画日記(2022年8月27日)

8/27 『The Invisible Frame』 Cynthia Beatt 2009年 ドイツ(MUBI) 

前作『Cycling the Frame』から21年。ティルダ・スウィントンが再びベルリンに帰ってくる。かつてあった「壁」はもう存在しない。東西の往来が自由になった土地で、彼女は自転車のペダルを漕ぎながら思索にふける。

西側から東側に足を踏み入れても、景色に大きな違いはないように見える。住宅街、野原、公園、湖。どれものどかなランドスケープだ。しかしティルダ・スウィントンがふと自転車を降りて看板に近づくと、そこには東側から逃げようとして殺害された住民のための記念碑があったりする。確かにそこは第二次大戦後に分断された場所だったのだ。

終盤に一瞬だけ映り込むおびただしい数の黒い立方体は『虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑』だろう。20世紀の負の歴史を詩的なモノローグで紡ぎながら自転車は再びブランデンブルク門に戻ってくる。

ラストシーンでの彼女の台詞(もしかしたら詩なのかも)を引用する。

Open doors
Open eyes
Open ears
Open air
Open country
Open season
Open fields
Open hearts
Open minds
Open locks
Open borders
Open future
Open sky
Open arms
Open sesame

”パレスチナの人々に捧ぐ”という言葉で締めくくられる本作。1988年の時点では決して続編ありきで撮られた作品ではなかっただろう。その直後のベルリンの壁の崩壊、東西冷戦の終結、なによりもティルダ・スウィントンのその後の世界的な活躍なくしてはこの作品は生まれていない。願わくば彼女が自転車に乗って世界の「壁」の痕跡と、今なお残る「壁」のこちら側を旅するシリーズとして続いてほしいものだ。

YouTubeにて1988年と2009年の作品の比較動画が投稿されていた。(おそらく公式です)


『鏡の中の女』 イングマール・ベルイマン 1976年 スウェーデン(U-NEXT) 

何不自由ない暮らしを送っている女性精神科医が主人公。症状の重い精神疾患患者を受け持ったことをきっかけに、自身の幼少期のトラウマが潜在意識から噴き出す。ひたすら悪夢を見た挙げ句に、笑いが止まらなくなるパニック発作を発症する。そして薬物の大量服用による自殺未遂を図るまでに。一命を取り留めるが再び夢の中で恐ろしい光景を目撃する。終盤で目が覚めた彼女は抑圧された感情を爆発させ、問題の核心が幼少期のトラウマであることが明らかになる。自身の全てを抱きしめて物語は終幕に向かうと思いきや、最後にさらに厳しい現実に直面する。

主演のリヴ・ウルマンの顔をロールシャッハテストに見立てたポスターが印象的。ベルイマンは当時、心理学者アーサー・ヤノフに傾倒。彼は幼少期のトラウマに傷つく大人への絶叫療法(原初療法)を提唱したことで有名。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが実践したことでも知られる。劇中でも主人公が叫びながら(同時に怯えながら)幼少期に抱いたトラウマ体験を語るシーンがある。これは明らかにアーサー・ヤノフの影響だろう。

原題『Ansikte mot ansikte(英:Face to Face)』は新約聖書コリント人への手紙第一13:12をあえて悪い意味で引用しているとの指摘もある。そうだとすれば終盤の最も重要なシーンで語られる”無信仰者のまじない”が大きな意味を持つような気がする。

「出会いによって実在できる日が来ますように」という”無信仰者のまじない”。なぜ”無信仰者の”と呼ばれているのか。

私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。

コリント第一13:12(聖書協会共同訳)

新約聖書の中でパウロが言及している「顔と顔を合わせてはっきり見ること」は神の助けなしにありえない。一方でベルイマンが俳優に語らせた「出会いによって実在できますように」というまじないは、神ではなく他者との出会いを指していると思われる。神を介在するのではなく、人生のある時点で親密になった人との出会い(他者との関わり)を通して自分が実在(存在)しても良いと言い聞かせる必要があるということだろうか。

幼い頃の虐待経験ゆえにプラスの感情にもマイナスの感情にも蓋をしてきた主人公が、本当の意味で自分の人生を歩み始めようとする瞬間を描いているようにも思える。もちろんそうすることにもまた痛みが伴うこともしっかり示唆されている。

私個人の虐待サバイバーとしての経験がフラッシュバックするトラウマ映画であり、かつ自分の「顔と顔」を合わせて見ているような不思議な気分にさせられる作品だった。

以下のシーンが恐らく絶叫療法を模していると思われる。


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