掌編小説 | あの街、あいの街
横揺れが心地良いシート、イチョウ柄の床、吸い込まれるように吐き出されるように入れ替わり立ち替わる人々、耳元からあまいメロディ。
真っ暗なトンネルのなかで閉じた瞼に光が射すとそれは「間もなく」の合図。イヤフォンの向こうからすこしの話し声とアナウンスが聴こえる惰眠と覚醒の狭間で、いつもよりうんと勿体ぶるようにゆっくりと世界を取り戻して。
スマホに指が触れる。一瞬で光が灯る。
ー いま、東三国でたとこ。
ー 了解、会社出るわ。もういけると思うけど、南口ちゃうで、北口やで。
北口と南口。ふたつの改札口しかないちいさなその駅は、たった二択を間違えると大惨事になる。まるで世界の果てのような、どこまでも正反対に伸びた細長い駅。屋根だけが取ってつけられたような吹きさらしのシンプルなホーム。右をみても左を見ても、黒、黒、グレー、たまに紺、やっぱり黒。溜息で今にもどんよりした雲が出来そうな疲れ果てた企業戦士たち。
軽やかな深紅のヒールが、曇天を交わして。
きたぐち、みなみじゃなくて、きたぐち、
唇からこぼれた羅針盤が指す方へ。
ーーー江坂。 私がいちばん、あいする街。
「あのさ、御堂筋で新大阪まではずっと地下やから真っ暗やん?それが東三国から明るくなるの好きやねん。あぁー江坂に近づいてきたなぁ、て。なんか分からんけどいつもわくわくする。」
北口を出てきっぷ売り場の右の階段を降りると、何故だか深く濃い緑の匂いがする。サラリーマンと学生しかいないと思っていたこの街には、不思議と大きな公園が沢山あった。さすが、大阪の北の方といえば住みたい街ランキング上位。しずかで、治安も良くて、ゴテゴテしてなくて。ところが、ベビーカーを押す小綺麗なママさんたちを横目に信号を渡って2ブロック歩いただけで、突然世界は一変して赤提灯が所狭しと立ち並ぶ路地が現れるそんな変わった街。
焼き鳥屋とスナックの間で、ビニールのアコーディオンカーテンから漏れ出すやわらかなオレンジ色の電球。初めて来たときに、お風呂場みたいやろ、と言って開けてくれたその扉の向こうではカウンターにドイツビールと焼いたエリンギが待ちきれずに並んでいるのがもう分かっていた。
「20分ぐらいか、天王寺からやと大体座れる?」
「座りたいから天王寺始発のやつ選んでるー。」
「あぁそっか、ほんならラクやな。まぁ毎回こっちまで来させといてラクってのもなんやけど。」
カウンターの向こう側から「ほんまそれ、」という拓人さんのヤジと共に、オーバル型のお皿幅いっぱいにどーんと乗せられたいつものウインナーがやってきた。
「もう甘やかすから、ゆりちゃんが。つけ上がってるんやでコイツは。こっちに引っ越してから毎回やのに、江坂来るんわくわくする、やて!かっわいいコメントしてんのに無反応やし!」
ナイフを入れると、ぶじゅぅっっと一気に肉汁が飛び出す。お皿の底がちゃんと深いのはこの為だ。こういう何気ない細かな気遣いが好きだな、といつも思うお気に入りのビアホール。
「甘やか、してるんかなぁ。でも私が来たほうがやっぱり早いし。電車乗るの嫌いちゃうし。」
隣の人は、あざす、とウインナーを口にする。
「ゆりちゃんさ、コイツのどこが好きな訳?ここら辺のおっさん達みぃんな思ってるで。ゆりちゃんみたいないい子には、もっとええ奴めちゃくちゃおるで?」
「えぇ、おっさん達て拓人さんの周りの人やろ。この人もやけど、そっちのが信用ならんわ!」
「ほんまそれ、」
隣の人は、ニヤリ、とそう言って美味しそうにビールを流し込んだ。
あぁまったく。この悪そうな顔。馬鹿みたいに好き。それから、二回間違えただけなのに南口ちゃうでって毎回ご丁寧に言ってくれるところも。
なんて、そんなこと、言える訳もなく。
「まぁ分からへんけど、居心地?的な?
あ、あれ食べたい。拓人さんこないだ作ってくれて美味しかった、枝豆のオシャレなやつ。」
なんやその適当な理由、と笑った拓人さんが枝豆を探しに冷蔵庫に向かってゆくと急にしずかになる、隣同士。2年8ヶ月がじわじわ堆積してきた慣れた沈黙。これをきっとその居心地と呼ぶ気がするのだけれど。
「おかんが、喜んでた。」
隣の人の話は、いつもこうして唐突に始まる。
「送ってくれたやろ、土産。ありがとぉって言っといてって。ラインするの忘れてたわ。」
「あー、マンゴー送ったやつか。え、まぁまぁ前やで。3週間とか。」
「そう、それ。だから忘れてた。」
「時差やな。どういたしまして。」
「ゆりちゃん次いつ来んの、ばっかり。俺はもうそこにいらんっぽい。」
「ママに会いたいわぁ。また近々行かな。」
「おん、俺抜きでもええみたいやし、暇な時行ったって。」
「俺いらんの、引きずるやん。」
会話は、ぽつりぽつり、決して激しくはないけれどゆるやかに流れてゆく。お腹を抱えて笑うことはない代わりに、目くじらを立てて怒ることもない。ありがとう、ごめん、ほんまそれ、あほちゃう、冗談やん、お腹すいたなぁ。私たちが手にする単語帳は年々薄くなった。
「ほいー、枝豆のオシャレなやーつ。」
湯気が立ち込めるほかほかの枝豆に、拓人さん曰く謎の粉という名のスパイス数種。鼻腔をツンと抜けてゆく鮮やかな異国の香り。
「んまそ、」
隣の人はそう呟いた後、こちらを見ずにウエットティッシュをぽいっと寄越していそいそと熱そうに枝豆を早速剥き始めている。
「これさ、めっちゃ美味しいけど手ベタベタになるねんなぁ。」
それはこの間私がまさにこれを食べながら、言っていた独り言で。そうゆうとこ好き、という単語はありがとう、のページの裏側にこっそり書かれたままなのだ。それがまだ彼も同じかどうかは、分からないのだけれど。
左右に行き交い続ける銀色の車体。横に刻まれた深い赤色の線。プワーッと鳴る金属の擦れた音。きっとまた人々は吸い込まれて吐き出されて。御堂筋はいつだって朝から晩まで絶え間なく頭上を流れてゆく。
「あ、クリーニング取るわ。」
ぬるい夜風と緑の匂いはじんわりと酔いを醒まして、会話のない二人が暗闇に紛れ込んでしまいそうな静寂の帰り道。一方的にゆるく絡めた右腕の上から欠伸とともに掠れた声が落ちてきた。
すごいなぁ、めちゃくちゃ便利。
せやろ、コインロッカーみたいやねん。
マンションから2番目に近いクリーニング屋さんは、お願いすれば仕上がった衣服を店の外のボックスに入れておいてくれるので24時間いつでも受け取りが出来る。地元では見かけないそんな仕組みに驚いたのも、気づけばもう随分前のこと。
そこだけ不自然なくらい煌々と照らされたボックスの前で、何かを言われる前に自分から右腕をそうっと解く。
ついさっきまでそこに居たはずの私の腕の代わりに巻き付くシルバーグレーのスーツ、折り目のついたパンツ、薄いブルーとピンクのワイシャツ。バサバサと揺れるビニールを抱えた後ろ姿をぼんやり眺める細い歩行者道路。
私には、あの左腕の代わりはやってこないのに。そんなのずるい、と思う。寂しい、と思う。
『あのさぁ、拓人さんとかママには可愛いとか会いたいなぁとか言ってもらえてますけども。おたくは最近、どう思ってますのん?』
なんて、そんなこと、訊ける訳もなく。
念じるように黙ったまま前を歩く広い背中を見つめても、心の中で叫んだ大声はいとも簡単に御堂筋線の走る音にかき消されていった。
「・・・アイス、食べたいなぁ。」
気がつくと口から漏れていたのは、心の大声とはまるで違う単語帳から頻繁に使う1ページ。あぁ、こんなことを言いたいんじゃないのに。
そのつぶやきは、前の人にも届いたらしい。立ち止まった彼が振り返って、あの悪そうな顔で笑っている。
「ふっ、そろそろゆうと思ったわ。買うてるで、ゆりのマカダミアナッツ。」
「ほぇ、」
「うちの冷凍庫に入ってる。帰って風呂入ったらハーゲンダッツやな。」
「太っ腹や、なんでなん。」
「最近会えてなかったし、ちょい罪滅ぼし的な?それにしてはまぁ安めやけど。」
「・・・ほんまそれ。」
「冗談やん。今度の休みはどっか行こ。」
「え、、行く、めちゃくちゃ行く。」
「いや、そんなめちゃくちゃは行かれへん。せいぜい近場や。」
「分かってるわ、冗談やん。」
ゆっくりと歩き出した左腕に、絡みつく。
隣の人は、うぉっ何やねん急にあほちゃう、と驚いて呆れたような声を出して。
「ゆりのマカダミアナッツ」のページの裏側には、なんと書かれているのだろうか。それを手にした時の頭には、私が浮かんでいたのだろうか。
「今度、どこ行こ。」
ありがとうも、うれしいも、大好きも、楽しみも、今はこの言葉にぎゅうっと閉じ込めて。
あの角を曲がると、マンションの灯りがもうすぐ見えてくる。
暗闇を抜けた、光の街。
ここは私がいちばん、あいする街。
inspired by 「 三国駅 」aiko
百瀬七海さんのこちらの素敵な企画に、再び参加させていただきました!
前回はエッセイだったので今回は小説を。
この曲のテイスト自体はどちらかと言えば哀しみや別れをイメージさせるものがあると思うのですが、なんというか、きっと誰しもが「三国駅」という自分の中でとくべつな場所を持っているような気がします。この駅、あの街。場所と記憶が、そして歌と記憶が、やはり連動するように。
わたしにとっての「三国駅」がまさにこの大阪の江坂という駅で、非常に思い出深い場所です。
(なので会話も関西弁なのですが、諸々読みにくかったら申し訳ありません……)
最初は別れ話で書いていたはずなのに途中から変更してしまったのは、なつかしい気持ちで胸がいっぱいになりすぎたのかも知れません。
「 育ってく小さな心を見落とさないでね
少しならこぼしていいけど
スカート揺れる光の中の
あの日に決して恥じない様に 」
三国駅の中の、いちばん好きな部分を最後に。
今回も書いていてやはりとても楽しめました!
心に残る機会を、ありがとうございました*