男惚れする格好いい男たち① vol.95
俺がこれまで積み上げた人生や読書感からくる、格好いい人間像について語ってみたい。
まずは坂本龍馬。
龍馬の死は1867年11月15日。
京都の伏見近江屋で幕府の走狗・見廻組の筆頭、佐々木唯三郎の手により暗殺された。
龍馬は中岡慎太郎とシャモ鍋を食している間に凶刃に斃れた。
階下で大きな物音がする。
それを龍馬は下男達の戯れだと思い、静かにするようにと『吠たえな!』と叫ぶ。
刺客たちはその声のありかを目指して、一心に階段を駆け上っていく。
かつて池田屋において、新撰組の山崎烝の企図によってあらゆる刀槍を一箇所にまとめられ、いざ新撰組の襲撃を受けて、丸腰で闘わなければならなかった。
結果として、累々たる屍を積み上げざるをえなかった倒幕派の男たち。
丸腰で戦うことの無意味さを龍馬ほど理解している男もいない。
だが、それと同じ状況が作り出されてしまった。
龍馬は平素、剣を馬鹿にしていた。
剣が手元にない。
己が剣の達人でありながら、日頃から殺傷を嫌い、剣について不用心であったのである。
千葉門下の駿足としてその剣名を皇都に轟かせていたにも関わらずである。
龍馬は結局、鼠族同然の刺客に不意を襲われた。
多くの士族の血が流れた。
その屍の列の果てに現れる新しい世界に、誰もが理想社会を夢見ていた。
むろん、龍馬もそのひとりである。
しかし、多くの志士が路上で大根のように斬られ、膾のような無惨な殺され方をした。
死の間際、こんな言葉を吐いて瞼を閉じた男もいる。
「死んでもまだ魂魄が残っている。魂魄でもって仕事(倒幕のこと)をする。良い世が来るまで俺は成仏すまい。一足先に切腹して果てた間崎哲馬が死の寸前にそういう詩を賦したではないか。」
龍馬は4度、刺客の白刃に甘んじた。
1度目で前頭部に致命傷になるほどの痛手を受け、2度目で命の高揚を見せはしたが力なく、3度目で鉄を斬るほどの斬撃を受けた。
4度目は最後に龍馬の前頭部をさらに深くなぎ切った。
龍馬は朦朧とする意識の中で、中岡を見た。
「シンの字、俺は頭をやられている。もういかん」
と言って、ゆっくりと染み入るような笑顔を見せた。
その笑顔が凶刃を受けた2日後に息絶えた中岡の網膜に残っていた。
龍馬は言い終わると最後の息をつき倒れ、その霊は何の未練もなげに天に向かって駆け上る。
天に意思があるとしか、この男の場合、思えない。
天がこの国の混乱を収拾するためにこの男を地上に下し、その全てが終わった時、惜しげもなくこの男を天に召し返した。
龍馬は、仕上げた己の成果について、未練も後悔もなく、魂魄と五体を駆け上らせた。
当時最強の剣術の流儀であった北辰一刀流の達人でありながら、人への憐憫に満ち、無益な殺傷を極端に嫌った龍馬。
国家を作るにあたっても、その視線は既に天皇を軸とする君主制ではなく、君主が国民の中から選ばれる共和制国家を目指していた。
「アメリカでは大統領が下女の給料の心配をするというぞ!徳川将軍は一度でもそんなことをしたことがあるか!それだけでも幕府は倒さねばならぬ。」
そんな言葉を残していたという。
このセリフは後に、土佐に伝わって勤王派の人々の心を奮い立たせるに至る。
土佐系の勤王運動は、薩長両藩のそれとは一線を画していている。
どちらかと言うと人民救済の匂いが強かった。
それは間違いなく龍馬の影響であったろう。
この伝統はさらに明治後の自由民権運動にまで繋がっていく。
こんなところから、土佐からは板垣退助、植木枝盛、中江兆民といった多くの民権運動家たちを輩出していくこのになるのである。
龍馬は家族や友人、そして親戚を大事にしている。
故郷に帰る時、龍馬を迎える温かい思いやりが龍馬の心を捉えて離さない。
そんな時、龍馬は地団駄を踏むようにして喜んだという。
龍馬の優しさとおかしみが滲み出てくるような一幕である。
(終)