明治にも渋沢翁のお札
回顧録に写真掲載 門脇・本間さん「興味深い」
7月3日に発行される新1万円札には「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一の肖像が描かれる。紙幣の顔にふさわしい人物として過去に候補に挙がったこともあるが、幻に終わっていた。「実は今から120年以上前の明治35年に渋沢のお札が発行されていた」と話すは、石巻千石船の会の本間英一さん(75)=石巻市門脇=。ただし国内ではなく、当時日本の統治下にあった朝鮮半島でのことだ。【平井美智子】
本間さんはこのことを渋沢の自伝「青淵回顧録」で知った。青淵は渋沢の雅号で、米寿記念で昭和2年に編さんされたもの。旧家の本間家の土蔵には古い書籍・資料が多く残っており、同書は祖父が購入した1冊という。
その中には、渋沢が日本初の銀行である株式会社第一国立銀行を設立し、明治11年に朝鮮支店を置いたことや、朝鮮政府の委託を受けて税関事務を取り扱ったこと、また同国内の金融界の実権を握っていたことなどが書かれていた。
さらに同銀行が発行した10円紙幣の写真には、渋沢の顔が描かれていた。来月から出回る1万円札は古希(70歳)の肖像を参考にしているので、それより若い時代の顔だ。
教員初任給が8―9円だった当時、10円札は価値の高い紙幣。しかし同書では、国民は国王の顔は知らなくても「青渕老人の顔はちゃんと見覚えていたそうだ」というエピソードを記している。
本間さんは「渋沢栄一は、会社というのは個人のものではなく、国を栄えさせるものであるという信念で近代日本の形を築いた。その人物が国外ですでに紙幣として使われていたことはほとんど知られていないが、興味深いこと」と話した。
石巻ともかかわり
渋沢は生涯に500近い企業の設立、運営に携わった実業家でもあり、同時に「金融の父」とも呼ばれる。
国第一国立銀行を明治6年に開業。大阪、神戸、京都に支店、9年には仙台と石巻に出張所を開設した。出張所としては全国2カ所目と早い時期で、それだけ北上川の舟運(とくに廻米)の拠点だった石巻に注目していた。
その後、石巻出張所は支店になり、15年に東京本店から転勤してきたのが文豪・志賀直哉の父の直温だった。
渋沢は、野蒜築港の計画にもかかわり、同年、現地視察のため石巻、野蒜を訪れている。
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