万人教祖論:正しさなんて捨てちまいな

宗教の意義と功罪

なぜ宗教があるのだろうという問いは
なぜ政府、組織、社会、家庭があるのかという問いにこの上なく近い。

宗教団体とはある「教義」を持った「社会的集団」のこと。

集団性すなわち「数の暴力性」と教義という「知の暴力性」を併せ持つ、いわば最強最悪の魔性の存在である。(過言かもですごめんなさい。)

現代では、名のある宗教に属していない者も含め、人類ほとんどすべて貨幣教、科学教、仁徳教、あるいは人類教だという話もある。

見えないものを崇拝することは、私からしてみれば全て悪魔崇拝に見えるのだが、こんな事を言うと、悪魔崇拝者に似非悪魔崇拝者だと思われて血祭りに上げられるかもしれない。

私は死者と太陽を崇拝している。
彼らは不動であり私の血肉であるためである。
そして、そのことの悪魔性を十分に理解しているつもりである。

このような考えを教え広めるつもりはない。
ただ、知識として提供はしたい。
命名して、作品化することはしたくはない。

そう、宗教は知識であるうちは、絶対に過たないのである。

そして集団性を持った瞬間に、その危険性は跳ね上がる。

数での競い合いが始まるからである。
それはまさに経済が抱えるのと同じ根源的問題を含むことになる。

だから私はここに、万人教祖論を提示する。

万人教祖論

万人教祖論はいかなる前提条件も既成概念も必要としない。
強いて言えば、条件を求めないことが条件である。
[まともな知性・理性・判断力]などはファジーであり理知的でないため必要ない

1人1人が教祖たる資格を生まれ持ち、
互いの思想を絶対のものとして尊重し合う。

仮に同じ対象(物体、教え)を崇めたとしてもそれは一時的な一致と捉える。
そうして初めて、教義・教典の純粋なる淘汰の歩みが始まる。

職業、政治参加はすでに個人化されたが、信仰の個人化は未だにあまり進んでいないようだ。
これはつまり、この思想が国の(搾取)構造を根底から覆すおそれがあるためであろう。

神道、八百万の神に似ているが、それよりもより普遍的で、
汎神論×唯物論に近い。

外的な教義「教典」を持ってもいいし、
古代人やかつての日本のように持たなくてもいいのである。

「教義の完全なる内面化」
これこそが、あらゆる宗教的観念が望む最高峰ではないだろうか。

既成の宗教をすべて「本」のように、純粋な「知識」として扱うようにする。

そして、互いの現状(知の成熟度、意識の高さ)を絶対的なものとして扱うことで、人格的な差別がなくなる。

人格的な差別をしない者が、人の見た目をそこまで気にするだろうか。
(キング牧師の欠点はその抑圧された劣等感にあった)


自分の信じる「正しさ」を捨てること

それ以外に、人格的に成熟する方法はない。
-という主張すら本当は捨てた方がよいのかもしれない。

あらゆる正しさは主張されることでその正当性のほとんどを失う。

私は何も主張したくない。

ただ、「提示」し続けたい。それくらいなら、許されるだろうか。



本当の優しさはあらゆる正しさの彼岸にある。

正しさとは生きる術、優しさとは



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