高さと遠さ、智慧と真理、拘泥と癒着
その山の頂点に立てるのは1人だけ。
隣の山の頂点に立ちたければ一度は谷を渡らなければならない。
高く上るほど、谷は深くなり、移動は億劫になる。
高さとは、基準面からの遠さ、山で言えば海水面からの鉛直距離のことだ。
地球上では最も高い点より、最も低い点の方が海水面からの距離は遠いらしい。
だから、私はかつて深さを究めようとした。
しかし、その試みにたいした成果はなかった。
海水面を基準とする限り、基準を一定にする限り、
それは自分のルールに縛られ続けることになるのだ。
海水面からは遠くても、自分に拘泥していたら何も面白くない。
だから次に私は、自分からできる限り離れることにした。
その時々で、基準を変更可能ならば、
私はどこにいても、ある地点からは遠く離れていて、
別のある地点からは地球上の誰よりも最も近い距離にいる。
誰よりも高いことが、上位入賞の勲章が「幸福」であるならば、
可変基準下では、
私はどんな状態においても、誰よりも幸福で、誰よりも不幸なのだ。
そんなことを考えた。いろんなことを考えた。
しかし、いくら自分から離れても、あまり面白くなかった。
元の自分がどこにいるのかわからなくなって、距離を測れなくなったからだ。
がんばって探してもよかったのだが、億劫になってやめた。
だから、次に私は特定の隣人を基準に据えた。
人は近づきすぎると離れていく。
離れすぎると、他人との区別が付かなくなる。
幸か不幸か、私は視力があまりよくなく、
『その人を識別し続けられる距離と、圧迫感を与えない距離がほとんど同じであることに気が付いた。』
見えるか見えないか、あるかないか、
認知できるかできないか、
わかるかわからないか、
覚えていられるか忘れてしまうか、
その狭い狭い狭い幅の距離の間でのみ、
私は基準を楽しめるのだと知った。
なんと、生き物とはうまくできているのだろう。
答えはこの肉体に宿っていたのだ。
その肉体こそが答えなのだ。
その状態こそが答えなのだ。
高みを目指すのもいいだろう。
精神を探究するのもいいだろう。
しかし、本当に自分を満たしてくれるものへの道筋は、
きっと狭く、細く、人1人通るのがやっとの幅で、
その道中は寂しくも楽しく、辛くも面白いようになっているのだろう。
この先、いつまた基準が変わるかはわからない。
しかし、
単純な感情なんてつまらない。
単調な基準なんておもしろくない。
明白な関係なんて楽しくない。
この世は良くもならないし、悪くもならない。
良くしたいなんてのは驕りで、
悪くしたいなんてのは妬みだ。
誰も言葉で言い尽くせないからこそ、
私は存在し続けることができるのだ。
誰だって言い尽くされたくなんてないだろう。
智慧は真理を暴かない。
正義は不正を暴かない。
秘められた何かを暴くこと、それは暴力だ。
黄金律は止まらない。