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エッセイ8「意思を強く持ちたい」

 最近、私は意思のない人間なのではないかと不安に思っています。
いえ、厳密に言うと意思がないというよりも拒否するほどの嫌なことがほとんどないということに気づきました。
家族、恋人、友人などなど一緒に出かけるときに必ず私に何が食べたいかを聞いてくれます。
私の周りの人たちは非常に優しく、これ以外食べたくない、絶対ここに行こうというエゴイズムとは無縁の方たちなのでお互いの話し合いで決めようという流れになります。
ここで問題なのはそう問われたとき、あまりにも私に提案力がないということです。
私は対面でこの質問を受けたときの反射神経があまりにも悪すぎます。
脳に伝達するまでは良いのです。
脳に伝達した後、私自身も不安になるほどになにも帰ってきません。
実際は何も考えていないというわけではなく、実は脳を高速回転させイエスノーチャートを作り、必死にゴールを目指しています。
今日の気分は魚よりも肉だ。
↓YES
肉もいいがパスタも食べたい。
↓YES
パスタは昨日食べたから他の麺類が良い。
↓YES
正直なんでも食べられる。
↓YES



私が唸り声をあげて固まっているとき、実はこんなことを考えています。
なぜこうも優柔不断なのでしょう。
食にこだわりがないからでしょうか。
いえ、そんなことはありません。
食事の時間に幸せを感じることは大いにあります。
問題の一つと考えられるのは私に食べ物の好き嫌いがないことです。
私は自慢ではありませんが嫌いな食べ物はありません。(パクチーは除く。あんなものは食べ物ではない)
大概の食べ物は美味しいと感じますし、その中に大きな差はありません。
差があればもっと強い主張を持てるはずです。
例えば私の友人はラーメンが好きで週に5回以上という化け物じみた回数のラーメンを食し、そしてちゃんと痛風になりました。
そんな病を患っているにも関わらずラーメンをやめることは生涯ないと宣言していました。
私がそれほどまでになにかの料理にこだわりがあれば良いのですが、どれも同じくらいに好きなのが問題です。
口を開けばラーメンだけというのも困ってしまいますが、選択肢としては1つに絞れているため話は円滑に進みます。
私は彼と出かけるときは、(あぁ、今日の夜はラーメンだなぁ)と思っていますから。
私に欠けているのは好きな物をさらに順位分けすることなのです。
そしてしっかり昼食、夕食のメニューをカテゴライズすること。
私の狂っているところはしっかり米や麺類を食べずとも、コメダのシロノワールでも充分に白飯と同等の役割を担えてしまうところです。
文にしてみて自分でも異常だと感じたので、まずはシロノワールはおやつorデザートと認識するところから始めようと思います。

 私は母と出かける際、毎度聞かれることがあります。
「昼ごはん何食べる?」
そして私はこう答えます。
「うーん、なんでも」
「なんでもじゃ困るよ」
母の返答は至極真っ当です。
そして私はこう返します。
「じゃあなんか食べたい物あるの?」
母が答えます。
「うーん、私は別に……」
こういうところは親子ですね。
パッと意見を決めたい人からしたら実にイライラする会話でしょう。
結局この後の流れとしましては、母の知っている店に行くか、視界に映った店に入るというのが定番です。
これを空腹が限界に達しているときでもやってしまうので本当に意思がないんだなと実感します。

私が食事で提案されて少し顔が曇るのはエスニックと焼き魚くらいでしょうか。
エスニックはパクチー出現率が高い(重ねて言うがあれは食べ物ではない)ので極力行きたくありません。
焼き魚はもう一生分食べたのでわざわざ外ではいいかなという思いからです。
私が6歳の頃から15年以上週3.4の頻度で夜ご飯は焼き魚でした。
その内の1は必ず鮭だったので、もう焼き鮭は自分から進んでは食べようと思いません。
幸い、あまり外食で焼き魚に当たることはありませんので特に問題はありません。
たまに定食屋で食べることになりますが、なんだかんだ食べると美味しいですからね。
そんなわけで好き嫌いがほぼほぼないため、あまり提案に否定的になることがなく消去法があまり機能しないのが問題ではないかと思います。
好き嫌いがある人との食事は消去法がしっかりと機能するので速攻で決まります。
逆に私と同様に好き嫌いがあまりない人との食事は選択の幅が広がる分、私の優柔不断さが露呈してしまうことが多々あります。

 私が振り返って、友人の提案を断ったのは一度だけではないでしょうか。
それは学生時代。
昼ごはんを外で食べようと大学を出た私と友人はまさに何を食べるか話し合っていました。
そのときに私の友人は以前行ったカレー屋が美味しかったと言いました。
いいじゃん、そこ行こう。
そう言いかけた私ですが、友人の次の台詞を聞いて黙ってしまいました。
「ちょっと高いけど」
私はやめようと言いました。
当時の私の価値観は『カレーに高いお金は払えない』でした。
家で高い頻度で登場するカレーをわざわざ外で、しかも1500円を超えることが許せなかったのです。
友人は不思議そうな顔をしていましたが、私の意見を汲んで結局は中華料理を食べました。
あのときカレーの口になっていた友人には本当に申し訳ないことをしたと思いますが、そのときの私はこの料理にはこの額までしか出せないと明確に線引きしていたのです。
しかし、その考えは神保町でカレーを食べて覆ることになるのですがその話は一旦置いておきましょう。
私と似たような考えを持つ友人がいました。
似たようなとよりは更に過激な思想です。
仮にこの友人をS君と呼ぶことにします。
S君は中学の同級生で、グループでよく遊んでいました。
カラオケに行ったり、買い物に行ったり、プールに行ったり。
しかしS君は絶対に食事だけは何度誘っても来ませんでした。
家のルールが厳しいのかと私は思っていたのですが、数年の時を経てついに理由が分かりました。
それはなんてことのない会話でした。
「今度飯行くけどS君も来る?」
「あー、飯なら行かない」
「やっぱり飯だと来れないの?」
「だって家で食べたら無料だから」
私は衝撃を受けました。
彼が外でご飯を食べないのはお金がかかるからだったのです。
ちなみにこの会話は私たちが成人した後の会話です。
彼は中学から大学に至るまで、お金がかかるから外食を断り続けてきたのです。
ここまで意思を貫き通すのはカッコいいなと私は思いました。
そしてそれ以降私は彼をご飯に誘うのをやめました。

 そのとき食べたい物をはっきり言える人には意思があります。
好きな食べ物が決まっている人にも意思があります。
嫌いな食べ物が決まっている人にも意思があります。
そもそも外食しない人には強固な意思があります。
彼らと比べてしまうと私はなぜこうも意思がないのだと不安になります。
チャートなんて作っている場合ではありません。
最短距離で答えを出したいのです。
今日は焼肉が食べたい。

焼肉
なんて簡潔でしょう。
ではもう一度。
今日は麺類はやめておこう。

焼肉
感覚が掴めた気がします。
感覚が鈍る前にぜひご飯に誘ってください。
なんだか今ならいける気がします。

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