
心と体という宇宙には未知の領域がいっぱい。
識子さんのブログに時々登場する元旦那さん。
消化器の難病の彼はビオフェルミンを飲むと調子が悪くなる。
それを医者に伝えたら、あり得ないって言われた。
ところが、実際に処方薬を変えたら申告していた不調は消えた。
本人が感じている体感に対してあり得ないって。
目の前の人じゃなくって、学問に向き合っている人から飛び出してくる言葉だよね。
ぼくも白内障の手術の前に右目だけに麻酔の目薬をしたら
見えている左目の視界が歪んだ。
それを医師に伝えたら、あり得ないって返事が返ってきた。
自分が信奉している眼科医学に照らして、あり得ないのであれば
なぜ患者がそう感じているか、
脳神経科医学であったり、他のジャンルを参照するのが
科学的視点だと思うのは、ぼくだけだろうか。
目の前に実際に異常を感じている人がいたら
訴えをしている人にとっては事実になる。
それが何故生じているかを調べるのが科学的視点。
分析が難しいのは人間の感受性には心が大きく関与しているから。
プラシーボ効果と同様
ふと、思い込んだことがカラダに実現していく。
以前、TVで京大の医学研究科の先生が癌になるかどうかは運ですと発言されているのを見て
仰け反るほど驚いてしまった。
寅さんばりに、それを言っちゃおしめーよ、TVに叫んでしまった。
その発言は「私は科学的視点を放棄しています」って宣言じゃん。
未知に対しての探求心を失ってしまっている。
心身を丁寧に観察できれば出来るほど
人間の心身で起こっていることが
偶然に起こっているのではないことが理解できるようになっていく。
もちろん解明できていないことは沢山あるだろう。
もし自分が把握できている見方で解明できなれけば
別の見方、指標を選び直して観察していく必要がある。
別の視点から捉え直すことで理解できることが増えていく。
それでも全てを理解するのは難しいだろう。
人間の心身は小さな宇宙なのだから。
ただし、科学者であるならば探求心は失わないでいたい。

人間を観察していく上で
心を捉えていなければ
それは実際の実態とかなりかけ離れてしまうのは間違いない。
自分が好きな異性が舐めていた飴玉を口に入れられたら
嬉しくなっちゃうけれど
行きずりの浮浪者が舐めていた飴玉を口に入れられたら
ほとんどの人は実際に気分が悪くなる。
その場合、最も大きな変化が生じたのは言うまでもなく心になる。
心の変化が実際に人間の全体系に変調を生じさせてしまう。
心以外にも実際に愉気を用いて働きかけを行なっているぼく自身もよく分かっていないものに「気」がある。
愉気ができる人が手を当てるのと、そうじゃない人が手を当てるのでは全然影響が違ってくる。
愉気が出来る人と、気合いが出来る人とでは、さらに影響が違ってくる。
ただ腹式呼吸が出来る人と、整腹気合術が出来る人が触れるのでは影響が全然違ってくる。
野口晴哉先生が君たちの愉気は障子越しの太陽光のような愉気だが
私の愉気は気合いですとおっしゃっていた。
実際に押さえる時に気合いをかけてみると
理由はよく分からないけど変化が違う。
やっている自分がなんで?って思っちゃう。
押さえている自分の在り方が明確に違うのは分かるんだけど
押さえている相手の変化が違うってことの理由は分からない。
目に見えない要素が明確に心身の在り方に違った影響を及ぼしていることだけは分かる。
新しい人間の見方が身に付いてくると
その先に、さらに未知の領域があることが分かってしまう。
たぶん、その繰り返しなんだろうと思う。
手応えを手掛かりにして未知の領域に分け入って歩み続けていきたい。
探求心だけは失わずに。