休めと言われても休めなかった自分へ
もしも、休むことに抵抗感があるなら、休まなければならない状況と休みたくないという感情の間で心が揺れているなら、もしかするとこの話が役に立つかもしれません。
これは、過去の自分に伝えたかったことであり、未来でまた同じ間違いを犯してしまいそうな自分のためのお話です。
自分が我慢していることにすら気づかず、精神的にも肉体的にも自分で自分を追い込んでいる……。そんな、かつての私と似た考えを持っている方にも届けばと思い、書き上げました。
長文になるので、ゆっくり目を通していただけたらと思います。
※共感力の高い方には、読むのが苦しい箇所があるかと思います。薄目で読むなどして回避してくださいね。
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2019年のことです。
私は病院でメニエール病と診断され、大学は休むようにと言われたことを考えながら、片手に処方された薬を持ち、家に帰るところでした。
幸いにも春休みが始まったころだったので、数日の絶対安静が必要だとはいえ、大学を休む必要はありませんでした。しかし、メニエール病になったのはこれが初めてではなく、この先も繰り返すだろうと言われたことが気がかりでした。
その時思ったのは、この先も繰り返すのだとしたら、「どうやったらこの先も、一日も休まずに大学に通い続けられるだろうか?」ということでした。
本当は、自分にどんな休息が必要なのかを考えるべきだったのに、いかに早く復活できるか、休まずに動き続けられるか、ということだけを考えていたのです。
そんな考えの根底でうずまいていた頭の中の声は、こんな風でした。
どれも本音ではありましたが、何かがずれていたな、と思うのです。
病気そのもの、自分の心、体……。そのどれもを軽視していたと思うのです。大学の勉強、親、友人、お金、時間……。それらはもちろん、大切なものです。でも、病気によって明確になった「休みたい」という心と体のサインを無視してまで気を回すのは、果たして正しかったのでしょうか。
その時の自分が一番気にかけていたのは、自分の体調や心ではなく、「周りからどう見られるか?」だったのだと思います。頭の中にあるさまざまな考えごとの根底には休むことを「悪」と捉え、一刻も早く「悪い」状態から抜け出そうという考えがありました。……本当に「悪い」のは自分の考え方だったと気づくのは、もっと後になってからでした。
春休みが終わって、大学に通う頃になっても、あまり症状はよくなっていませんでしたが、「大学に通う」以外の選択肢はなかったので、ずるずると通いました。ずるずると、とは言ったものの、病気を言い訳にしたくなかったので、一日として大学に遅れたり、休んだりしたことはありませんでした。もちろん体にも心にも負担はかかり続け、何度も病院のお世話になりました。
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絶対安静をするように言われた時は、家から一歩も出ずに、「何もできない、どうしよう、どうしよう。色んな人に迷惑かけちゃった」と一瞬も気の休まらない時間を過ごし、少しでも動けるようになると、「私はもう病気じゃない、普通に活動しなきゃ」と、遅れを取り戻すように外に出ました。
なぜ体調を崩したのか、どんな休息を心と体が求めているのかは、少しも考えませんでした。もしかすると、考えたくなかったのかもしれません。
メニエール病を繰り返すうちに、頭の中でしていた会話は、少しずつ変化していきました。でも、「周りからどう見られるか?」という恐れにも似た感情が根底にある「自分責め」は相変わらずでした。
さらに時が経つと、病気に対して、もっと重くてネガティブな考えも生まれてくるようになりました。
こういう思いを何度もすると、他の人はどうだか分かりませんが、私は、「病院に行かなければいい」という結論を導き出すようになりました。薬を処方されるたびに感じるのは、「これで病気を治そう」なんていうポジティブな気持ちではなく、「どうせ数か月後には同じ場所にいるんだ」という絶望に似た気持ちだったからです。
落ち込みたくはありません。
だから、落ち込まなくて済むように、「病気に慣れよう」としたのです。……少しお考えになれば分かるでしょうが、これは最悪な決断でした。
だんだんと、日常生活が苦しくなっていきました。それでも、「まぁ、こんなもの」とやり過ごし続けました。何か月も。
朝、起きようとしても、頭が重く、あまりに気持ち悪いので起き上がるのに非常な時間がかかるようになりました。
ごはんを食べようと思っても、気持ち悪くて、少しずつとはいえ、食べられる量が減ってきました。
夜、眠ろうとしても、日中、思うように活動できなかったためかなかなか寝付けず、暗闇でひたすら自分を責め続けました。もっと色んなことが出来たはずだと。
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そんなある日、転機が訪れました。
立ち上がることすら億劫になった自分を責め立てながら、無理やりに散歩に出かけた時のことです。
その日は朝から苦しかったのですが、歩き出すとさらに苦しくなりました。それでも「今、立ち止まってもしょうがない」と歩き続けようとしました。
でも、その次の瞬間、誰かに頭を押さえつけられるような感覚がして、私はその場に座り込みました。
苦しくて苦しくて、立ち上がることもできません。
突然動けなくなったことに驚き、私はそのまま数秒、呆然としてしまいました。自分の中で、何かが切れたような気がしました。
アスファルトの上で、今までの自分の思考が蘇ってきました。そして、それがいかに間違っていたかということに、ぼんやりとではありましたが、気がついたのです。
その時、ようやく、「自分は、立ち止まらなくてはならない」のだと、素直に現実を受け入れることに、初めて成功したのです。
結局、家族に支えられながら家に帰り、病院に連れて行ってもらいました。(この時のことは、別の記事にも書いています)
それから数ヵ月、私は、「休みたい」というサインを送ってくれていた自分の心と体と向き合い、きちんと休みました。
朝、きちんと起きられなかったとしても、自分を責めるのをやめました。
日中、いつかやりたいと思っていたこと(読書や映画、書くこと)を、自分にやらせてあげました。
夜眠る時は、何ができなかったかを数え上げるのをやめ、今、自分に与えられているものに感謝するようになりました。
そのおかげか、体調を崩すことがあったとしても、今ではほとんど毎日、心穏やかに過ごせています。
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だから、もし、今、病気などの体や心の不調で、「冷静に考えれば、休むべき状態」にある人がいらっしゃったら、どうか、休んでください。
もしやりたいことがあっても、今は立ち止まるべきなんです。
もしやるべきことがあっても、今は立ち止まるべきなんです。
なぜなら、強制的に社会から切り離されてしまったような感覚があったとしても、慌てて元に戻ろうとすればするほど、自分の健康を損なってしまうからです。
私は未だに、この「休む」ということが苦手です。心と体のバランスを崩している期間がそこそこ長く続いていたので、周りからすれば休みすぎに見えていたかもしれません。
でも、心の中はいつもあわただしく自分を急き立てていて、休んだことを責め、休んでいることを責め、休まなければならないような体であることを憎く思っていました。
確かに、やりたいことが出来なくなるのは、くやしいことです。
でも、私のような人間は、やりたいことができなくなるくやしさよりも、周りから役立たずだと思われないかという恐れの方が強いのだと思います。
だから、もしも、休むことに抵抗感があって、「やりたいことができなくなるくやしさ」よりも、「やるべきことが出来なくなる苦しさ」が勝っているのだとしたら、要注意です。
あなたはもう、休んでもいいのです。
いつまで、なんて決める必要はありません。自分に立ち上がれる力が戻ってきたと感じられるまで、休んでいていいのです。(そんな日は、必ず来ます)
まるで治ったかのように生活し続けることは、病気を長引かせるばかりです。
でも逆に「自分は病気だ」と思い続けることも、病気を長引かせてしまいます。
どうしたらいいのかというと、
病気のことは忘れて、ただ、休むのです。
自分自身、大学を休むという選択をできなかったので、学業はもちろん、仕事をしている方は、「休めと言われたって休めない」というのが現実かもしれません。
でも、せめて、「休日」を作れなかったとしても、自分に「もう休んでいいよ」と言ってあげる時間を取ってほしいのです。夜、寝る前のほんの数分でも、自分を休ませてあげてほしいのです。
今日の失敗を振り返ったり、今日できなかったことを数えあげたりする代わりに、無理にでも今日、自分ができたことに意識を向け、感謝しながら、眠りにつけるようにしてほしいのです。
そして、できることならば、ゆっくりお散歩に行ったり、好きなことをしたりする時間をとってほしいのです。
この時ポイントになるのは、そういった時間を「無駄に過ごした」と考えないことです。
休むことは、
無駄でもなければ、
悪でもないのです。
あたらしい自分になるために、立ち止まらなければならないことだって、あるのです。
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