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正しいことを学んで終わりじゃなかった
今日から4月。つまり今日から肩書きが変わる人がたくさんいる。新小学生、新中学生、新高校生、新大学生、新社会人。どれだけ環境が変わっても僕たちは学び続け、勉強することをやめないだろう。
人は何故勉強するのか。
誰もが学生時代に立ちはだかるこの問い。
親になれば子どもに聞かれることの多いこの問い。
みんなの中に答えはあるだろうか。
テストでいい点をとるため?
周りに褒められるため?
学歴社会を勝ち抜くため?
どれも響かないけど、なんとなくこれらの為に勉強していた気がする。
僕がその答えに辿り着くのには時間がかかった。
昆虫博士!昆虫博士!
みんなにそう呼ばれた幼少期、僕は野原を駆け回り虫ばかり捕まえていた。身近な存在ながら空を飛ぶ者、鳴く者、泳ぐ者、戦う者、多種多様な宇宙のように広い昆虫達の世界に魅了されていた。
とりわけ興味深かったのは擬態する昆虫達だった。枝にそっくりなナナフシ、樹の葉にそっくりなコノハムシ、ある花と同じ配色のハナカマキリ。まるで忍者のように隠れ身の術を使う彼らに驚愕した。
「うっわあ、昆虫ってすげぇ!!」そう強く思った。
そんな僕の純粋な心を裏切ったのは高校時代に出会ったあのダーウィンの進化論だった。
ダーウィンが唱えた自然選択説によると、環境に適応した個体の遺伝子が後世に受け継がれていくということだ。つまり、擬態する昆虫でいうと、偶発的に突然変異によって、枝に似たナナフシが枝に似ていたが為に生き残ることができ、子孫を遺すことができた。つまりこれは隠れ身の術ではない。たまたまだったのだ。
僕は高校時代、この事実を受け入れることができなかった。僕たちは環境に生かされているだけだ。僕らの力では進化することはできないのだ。環境に適応できなければすぐに淘汰される。生きものは無力だとそのときはそう思った。
ダーウィンの進化論を授業で学ぶ前、僕たちはラマルクの進化論について学んだ。用不用説。獲得した形質が遺伝されるという説だ。例えばキリンの首が長いのは、高い木に生えてる草を頑張って食べるために首を伸ばすことで、首が発達して長くなった、その形質が遺伝したということだ。だがこれは否定されている。
でも僕はダーウィンの進化論よりも、ラマルクの進化論の方が好きだった。僕たちがここまで発展できたのは、過去の産物や、偉人達の功績、人々の努力がある。これは紛れもなく獲得したものだ。これは生物的には遺伝されない。でも僕たちには継承されていく。個人間でも、集団間でも、獲得した素晴らしいものは継承されていく。そうやって人類は進歩してきたし、これからも進歩していく。
だから僕は自分の人生で多くのものを獲得していくつもりだ。そしてその生き方、生き様を後世に1人でも、なにかひとつでも継承されたい。
学問は正しいことを学ぶ。
けれど、学んだことに対してどう考えて、どう生きていくか、大事なことは学んでからはじまると思う。
学んだことは、血となり肉となり、人生観や価値観に変化を遂げていく。
僕は今、休日、世界史の勉強をしている。それは今の世界情勢に衝撃を受けて、自分がこの世界を何も知らないことにも驚いたからだ。勉強したからといって世界が変わるわけではないけれど、勉強することで、自分はどうするべきなのか、自分は世界にどうあってほしいのか、考えて生きていこうと思う。
どうして勉強するのか。
そのこころはよりよい自分をつくり上げるためだと僕は思う。
決して人生(職業)の選択肢を広げる為ではない。
正しくは思考の選択肢を広げる為なのだと僕はそう思ってる。