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松本盆地は、昔、湖だった...のか? (4)

 昔湖だった場所を神様が岩を割って水を抜き、人が住める土地にしたという話は蹴裂伝説とも呼ばれています。
 松本盆地に伝わる泉小太郎の民話にスポットを当て、その中で語られる蹴裂伝説『松本盆地は大昔は湖だった』というくだりを自分なりに調べています。

これまでのまとめ

 「舟」や「崎」、「海渡」等の水に関する地名のある場所の標高や縄文時代の遺跡の分布から、標高600mあたりが湖水面だったと考えることは可能でが、安曇野市熊倉(標高約560m)や穂高矢原(標高約540m)から縄文中期の遺跡が発掘されていることから、その頃には民話で語られるような巨大な湖は無かったと言えます。

 旧石器~縄文早前期頃に湖が存在した可能性が残されているものの、地質調査では湖底だったことを示す明確な証拠が見つかっておらず、いまのところは残念ながら民話が語るような巨大湖は無かったと考えざるを得ません。

 そこら辺のことを書いた過去記事を、本記事の最後にリンクしますので、お時間があればご一読ください。

湖ではなく、湿地ではなかったか

 少し譲って、松本盆地には複数の河川が流れることから、

河川による氾濫等で昔の松本盆地は湿地が多く、人が住める場所が少なかったが、時代が下るにつれて人が住める場所が多くなってきた。

と考えることはできます。そして、それが民話のベースとなっているのではないか、という可能性は考えられます。

 松本盆地が湿地だったという可能性は、実は結構高いんじゃないかと考えています。

松本盆地を襲った大災害とは?

 『松本盆地は、昔、湖だった...のか?(3)』では、約1万2千年前頃(縄文早期頃)を想定していましたが、ちょうどその頃に松本盆地である大災害が起こっていることがわかりました。

 それは大洪水です。大雨でもあったのでしょうか。それも洪水というくらいなので、すごい大雨が。

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 上高地の大正池。その名のとおり、大正5年に焼岳が噴火を起こし、それによって梓川がせき止められてできた堰止湖です。
 今は景勝地になっており、湖から枯れ木が突出る独特な景観は驚きと感動を与えてくれます。ぜひ一度、足を運んでもらいたい場所ですね。

 大正池は、梓川が運ぶ土砂によって徐々に水深が浅くなっていて、景観保全活動が行われているんだそうです。河川の堆積作用によって、緩やかに地形が変化しているということは、この景観も時とともに変わっていくということですね。

 また、最近では海底火山の噴火によって西ノ島に新しい陸地ができるなど、火山活動によって短時間で、ダイナミックな地形変化が起こる場合もあります。
 『松本盆地は、昔、湖だった...のか?(3)』にも書きましたが、日本アルプスは今でも4mm/年もの隆起が見られる場所があるそうです。

 こうした火山や河川による地形変化が比較的大きい上高地で、信州大学理学部が2008年度にボーリング調査を行っています。この調査によって、この地で約1万2千年前に大きな変化が発生したことが明らかになりました[1]。

 それは、巨大湖の発生と消滅、梓川の流れの変化です。

巨大堰止湖

 約1万2千年前、間氷期に入り徐々に平均気温が上がり始めた頃、白谷山が大噴火を起こし、それにともなう山体崩壊によって、古梓川を堰止めてしまいました。
 ここで、古梓川と言っているのは、今の梓川とは流れが違うためです。当時の梓川は安房峠から平湯温泉方面に流れており、今のように松本盆地へは流れていなかったと考えられています。

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古梓川と現在の流れとの違い (国土地理院地図に文献[1]を参考に追記)

 古梓川がせき止められたことで、現在の上高地付近には巨大な堰止湖ができました。信州大学の調査チームは古上高地湖と呼んでいます。
 古上高地湖はそれから5000年以上に渡って存在し、長さ12km、幅2km、深さ400mの超巨大湖になったと推測されています。湖底には堆積物がたまっていき、これが現在の上高地の原型になったようです。

 古上高地湖に溜まった水の容量はどれくらいでしょうか。
 長さ12km、幅2km、深さ400mの三角柱状の容積としてざっくり計算すると、実に4百万リットル。学校の25mプールの1400万倍、東京ドーム3870個分以上の量です。(いずれにしても、想像できないくらいの量ですね。)

 これほどの水を湛えた古上高地湖は、今から約5000年前に決壊することになります。

古上高地湖の決壊

 約5000年前、境峠断層起因による地震により、古上高地湖が決壊します。

 湛えられた大量の水と土砂は現在の梓川の流域を下り、松本盆地に押し寄せました。この洪水により、現在の松本~豊科一帯に厚さ10m以上におよぶ土砂を運んできたと考えられており、これを期に古梓川から現在の梓川の流れになったとのことです。

縄文人はどう感じたか

 現在の波田地積の梓川河岸段丘上には、縄文中期以降の遺跡が発見されているので、洪水の前後に人が住んでいたのは間違いなさそうです。ただし、その人たちが洪水そのものを体験した、あるいは目撃したかは定かではありません。

 どちらにしても、洪水後しばらくの間、この松本盆地は湖とはいかないまでも、人が住むには適さない湿地帯になっていた可能性が高いと考えられるのです。
 時間が経つにつれて徐々に水が引いていくと、人が住めるようになり、梓川の魚等を採ったり、湿地を生かした簡単な作物栽培をしていたかもしれません。

 もし、この一連の激変を目撃した人たちがいたら、こう語るのではないでしょうか。
 「この一帯は昔は湖で、神様が湖の水を抜くことで人が住めるようになった」と。※

※ただ、もし一連を目撃していた人たち(たった1世代で洪水から干上がるまでの全てを体験できないかもしれないので、一族や集団と表現したほうがいいかも)がいたのであれば、洪水の伝説が残らず、湖が無くなったという蹴裂伝説のみが残ったことの説明がつかない。洪水自体を目撃した人たちと蹴裂伝説を残した人たちとは別の集団であり、後者は洪水は知らないが湿地は見ていたと考えると無理がないが、どうだろうか。

まとめ

 今回は火山や地震によって約5000年前に発生した洪水を検討しました。

 約1万2千年前には上高地に巨大な堰止湖(古上高地湖)があり、大量の水を湛えていました。
 その古上高地湖は約5000年前に決壊し、大量の水と土砂が松本~安曇野一帯を襲いました。

 松本に伝わる泉小太郎の民話(蹴裂伝説)は、洪水による大量の水が引き、人が住めるようになったことを口伝したものかもしれません。

参考文献

[1] 原山智. "「古上高地湖」の発生から消滅まで". 信州大学先鋭領域融合研究群山岳科学研究拠点. cited 2020.7.16.


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