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ノイズと残り半身『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

話題書を読んだ。
三宅香帆 2024:『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 集英社


自分自身も働き始めてからめっきり本が読めなかった

文系の大学院に行っていたので人より読んでる方ではあった。
そしてその習慣は既に自分に染み付いていて、働き始めてもある程度は読めるんだろうなと思い込んでいた。
しかし全くだった。

この働き始めてから本が読めないってのは、自分にとってけっこうショッキングだった。
研究と違って本が自身のミッションに直結するわけではないので多少は読まなくなるものとは思ってたが、こんなにも読まないとは。

なんでなのかと考えてみたりした。
振り返ると、時間をうまく生み出せていないのが1番の原因である気がした。
けっこう飲み会が多かったり、普通の時間に帰ってきても本を開く気にならなかったりと、自分で自分の時間作りができてないのが悪いと思っていた。
そうして1年半ぐらい過ごしてた中で、出先の暇つぶしに寄った本屋で偶然見つけたのがこの本だった。
(その時点でかなりの話題書だったにも関わらず、出会いがそんな形であるところからも、いかに本を読んでなかったかがわかる)

最初は自己啓発本なのかなと思って手に取った。
しかし開いてみると明治から令和まで、働く社会人の生活と読書の接点というテーマで駆け抜けている。
こういうアプローチは自身がやっていた研究とも共通していたところもあり、久々に少しワクワクした。
申し訳ないことにやっぱりkindleの方が読むだろうなと思って、その場でAmazonさせていただいた。

働いていると本が読めないのは、君のせいだけじゃなく時代のせいという見方もできるのよと言ってくれる

本を読むことは、働くことの、ノイズになる

本書 第7章

明治から令和まで、労働する人間と読書との距離を捉え直す。
自己啓発書の起源から、円本、司馬遼太郎まで、およそ150年ほど時間が流れる。
意外と同じような話なのかなと思いきや、その意味合いは今と昔では全然違っていた。

新自由主義と情報化が、ノイズとの出会いを阻んでいる。
かつて労働者にとっての教養は、古典文学を読むなど労働自体とは直結しない位置にある何かに触れることだったと言える。
しかし現代ではどうか。書店には「仕事に活きる教養」が溢れていて、それを吸収することで、直接的に自身の市場価値を上げていこうということになっている。

本書にも記載の通り、労働者の実存が労働によって埋め合わされているのだ。
昨今では、自身のやりたいことや自分らしさを大事に、仕事をしていこうと言われる傾向が強まっている。しかしここで持つべき・活かすべきと言われる個性は、字義通りのその人ならではのものというわけではなく、市場が自身を雇い使っていく上で目に留める「スペック」や「特徴」を指す。

つまり個性が大事という時代になったような気がしていても、実際には個性などというものはどんどんなくなってしまっていて、そこにあるのは測定可能な市場価値なるものを内面化することを求める見えない圧力だけなのである。

こうなった時に、ノイズである読書はどんどん遠くなる。
労働者としての自分を高めてくれる「情報」を前に、何に生きるかもわからない昔の物語などが選ばれるはずはない。
読書が難しくなるのも仕方ないか、と自分を正当化するわけではないが少し気持ちが楽になった。

残りの半身、何が入るか

「半身」とは、さまざまな文脈に身をゆだねることである。読書が他者の文脈を取り入れることだとすれば、「半身」は読書を続けるコツそのものである。

本書 最終章

このような状況に対し、「半身」で仕事することを提案してくれる。

モーレツに働いて世の中が上向く時代は終わった、同時にそれによって個人のモーレツが報われる時代も終わったのだと。
それであれば、自身の毎日に仕事以外の文脈も取り入れ、本当の意味での個性を見出せるような何かや、心からの休息や、読書に充てていこうと。

そしてその半身化の難しさもある。モーレツは、ある意味楽なのだ。他を捨象して働くことにのみフォーカスを当て、そこでの成果を追っかけていればいいから。
でもその先には疲弊しか待っていないから、「頑張って」全身全霊をやめていこうよということなのである。

自分はこの本を読む前から、とある取り組みをしていた。「朝1、夜2運動」と名付けたその実践は、平日勤務時間前後の朝1時間、夜2時間を確保して他の何かをしようというものであった。
少しだが何か本を読んだり、買い物に行ったり、家でぼーっと映画を見るなどして、仕事外の時間の確保に努めてみていた。
確かにメリハリがついて良いし、自分の時間が増やせているのは精神的にも良い傾向だなと思っていた。

しかし、その時に小説は読めないのである。映画も「なんか話題になってる」「話のネタになる」という動機でしか見てない。なんなら朝は簿記と英語の勉強をし、夜は筋トレしてたりする。

そう、自分は半身で働いた残りの半分に、ノイズを入れられる気がしない。
何らかわかりやすい意味があることにしか、手が付かなそうなのである。

昔から本が好きだった人や、放っておけば時間を忘れて没頭してしまう趣味がある人には、半身で働いた残りの半分に充てるノイジーな何かはすぐ出てくるのであろう。

しかし自分の場合は、その何かを探すところからなのかもしれない。
とりあえず時間を作って何かに充ててみて、「あ、これ好きかも」という感覚であったり時間を忘れて打ち込んでしまう経験だったりに、まずは出会うところからなのだろう。

こうなると本書でいう半身化は、非常に難題である。これやって何かになりそうか、という自分のフィルターを取っ払って物事と向き合っていかなければならないから。
とはいえ全身全霊を続けた先には疲弊しかないという感覚も、わからなくもないので、とりあえずはこれまでよりもスコープを広くとって、少しずつでも生活にノイズを取り入れていければと思う。







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