文学の言葉は世界を救うと
かつて教えていたインターナショナルスクールでは、二つのタイプの日本語授業があった。
一つは、日本語ネイティブの生徒向けの「国語」の授業(うちでは文科省検定済の教科書を用いていた)。もう一つは、日本語非ネイティブ向けの日本語の授業だ。
非ネイティブクラスでは、初めて日本語に触れる生徒は「かな」学習から始まり、その後にコミュニケーションのためのテキストを使っていた。
さて、「国語」の教科書だが、内容が盛りだくさん!
私は中1クラスを担当したのだが、漢字の量と質の高さ、古典として古文や漢文まで網羅されている。英語で他科目を勉強している生徒がこれらを学習するのはかなりの負担であるように感じた。
実は日本語ネイティブと言っても、話せるけど漢字はほとんど書けないという生徒も意外と多い(漢字は難しいのだ)。
そして、生徒の中には、文学的表現を多く含む小説の読解が苦手な人が見られた。普段から日本語の小説に読み慣れている生徒もいるが、そもそも本を読む生徒自体多くない(大人もね)。
恥ずかしながら、これは私が英文で書かれた専門書は読めるが、英文小説はスラスラ読めないのとよく似ている…。
そもそも専門書と小説とでは、使われている言葉の種類が違う。日常会話のことばなのか、抽象的なことばなのか。
実は最近、文学に目覚めている!?
それはただたんに、小説を読んで楽しい!というだけではない。
エンタメ要素は否定しないけど、もっと深くて、広がりがあって、不思議な世界に飛ばされ、世の中を見る眼が変わる、そんな体験に惹かれている。
もしかしたら村上春樹の本とかも、そうかも知れない。
世の中、わからないことだらけ。
だから、面白い。
説明的、論理的な文章はわかりやすい。でも、それだけ。意味が明白であるため、視点が広がらない。
それに比べて、文学的な文章には、文化的・個人的な背景が込められていて、何だか曖昧でわかりにくい。でも、その場面の雰囲気のようなものを行間から感じることができる。
さきほどのインターナショナルスクールでの国語の授業で盛り上がるのは、やはり小説の方だった。
ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」はやや長い文章だが、生徒の食いつきはいい。子供っぽい主人公の「僕」と優等生タイプの「エーミール」。
どちらの人物により魅力を感じるか。
ちょっと前に、日本の高校で教える国語の学習内容が大きく変わったことが話題になった。「論理国語」という科目が出てきて、実用的な日本語の習得が目指されている。そして、文学軽視の傾向が見られるようになった。
日本の偉いさんは全くわかっていない。未来の「不確実な時代」を生きるために必要な力は、知識ではない。わからないこと、曖昧なことに興味をもち、異次元の発想を生み出す想像力だ。
文学のことばこそが、未来を拓く鍵なのだ。
日本のでもいい。でも海外の小説の方がいい。
もっと、もっと小説に親しもう!
世界の平和のために!
もとの話に戻るが、文学に目覚めた私はインタナショナルスクールでの勤務を活用して、英文小説が読めるようになりたいと密かに夢見ていた。
さて、結果は?
本棚を眺めればわかる。
そこには「新潮クレスト」のキュートな表紙が見えている…。