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霊に対して、我々がどう向き合うか?『祓除』考察

それとなーく気になっていた『祓除』をようやく見た。

最初は「フゥン?」と思いながら映像を眺めていたけど、徐々に見方がわかってきたというか、あれこれ感想を抱きながら見るようになって、事後番組を見終わる頃には、「そういえばすこし前には、こんな世界が身近にあったんだっけ…」という懐かしさすら感じるようになってきた。

番組全部見て、公式X見て、ネット上の感想や記事を読んでも、祓除への印象は「フゥン?」のままだし、面白い?って聞かれると「ンー」ってなる。とはいえ情報収集して感想まで書いてるってことは『チューニングが合った』証拠だと思うし、自分でもわかりにくいけど面白かったんだろうなあ。


『祓除』ってなんだ


公式Xより引用

読み方は「ふつじょ」。テレビ東京が開催した、人々のあいだで穢れや禍とみなされてきた映像や物品を無害化するための式典の名称である。大晦日みたいだね。

「ばつじょ」と読むリアルイベントもあるようなので、それとは異なる儀式であることを強調するために読み方を変えたんだろうか。表記も実際には『祓|余』となり、こざとへんではないので"除く"ことはできない。

いとうよしぴよさん(この異様な空気に放り込まれる"よしぴよ"というかわいい語感のアンマッチが最高たまらん!)も、祓除師として「(鬼神などの霊的な存在に対し)それを消滅させたり、それを無くしたり、この世界から消したりという事はしません」「できる筈がない」と発言しているので、無害化するための式典という表記の正しさがわかる。

同時に「霊に対して、我々がどう向き合うか?そちらの方が大切」とも言っているので、このあたりが番組を楽しむヒントなんだと思う。

余談だけど、文字を逆さにしたり、そこだけ色をつけるなどして「~ではない」と表現する手法って古い看板ではよく使われていたけど、最近じゃほとんど見かけなくなったね。例えば、「鳥専門店」の鳥の字が逆さだったら、「生体の鳥はいません(ペットショップではなく鳥系グッズ専門店)」という意味になるなど。これ系看板の違和感が好きだった事をふと思い出した。

最後にタイトル画像について。テレビ局に集まった、祓除が必要な品々を表すように積み重ねられたガレキの山。よく見るとコラージュや手書きが重ねられており虚実入り交じっていることがわかる。もしかして事後番組の「解像度をあげて見る訓練」にもかかっていたりするのかな。フェイクドキュメンタリーという、作品の趣旨をよく表していて好き。フライドポテトは私が食べる。

感想と考察


事前番組の冒頭、「テレビ東京が祓除を開催いたします」というナレーションからすでに最高であった。この、日常に不意打ちを食らわせる登場の仕方や、回避が難しい暴力的な側面は深夜のテレビ番組との相性が良すぎる。

15年ほど前、2000年代は作業用BGMにテレビをつけっぱなしにして徹夜で作業を行うことが度々あったので、突然ホラー映画が始まったり、突然ダイバスターが始まったり、深夜番組との出会いはガチャめいて楽しかった思い出がある。同様の状態で放送に立ち会っていたらどう感じたかを考えるのも楽しい。

怪文書などの"電波"についても、前述の徹夜作業と同じ頃にネット上で純度の高いものを、都市伝説系フォークロアとあわせて片っ端から読んでいたので懐かしさが過ぎるというか。

祓除の式典自体は、事後番組と感想を合わせて見てみてもよくわからん。
でも、なんとなくそういうことかなって思うものはあるよ。

興味のない人には変なドキュメンタリー映像にしか見えなくても、興味を持ち「何かある」と思う事によって注意深く目を凝らしはじめ、黒い人影のように自分が見たいものを見つけられるようになる。

つまり物事を意識的に視ることで『高解像度』の情報を受け取れるようになり、それが『チューニングが合った』状態と言えるのでは。
たとえば陰謀論のように、実際同じものを見ていても情報の受け取り方というのはその人のチューニング次第だとよく感じる。事後番組で取りあげた視聴者の声が正反対だったのも、それを示唆しているのかな。「我々がどう向き合うか?」という言葉にも繋がる解釈だし、全体の要素がこの視点に集約されていくようにも思える。

「解像度」「チャンネル」「チューニング」と言った、いかにもテレビな用語を多用している所がにくい。よしぴよさんの人物像に関してもチューニング次第というか、番組に振り回されていると思えばそうだし、実際なにかあると思えばそう。私は絶妙なキャスティングだったなーと思うばかり。

そういえば祓除による「無力化」って何だったんだ?
ここもテレビ的な解釈を行うと、一部の人間にヤバイと思われている代物であっても、多数の人間の目に触れさせることで様々に解釈され言霊の力が薄まるとか、そんなことだろうか。

たとえば10人中10人が危険だと思っている素材は「100%危険」だが、100人中30人が危険だと感じても、70人が「危険ではない」と感じたら、その素材の危険度は30%に削減されるといったようなイメージ。
なんて真面目に考えたところでフェイク式典なのだが(そういえば)。

式典の主題が「素材の無力化」から「人々の調和」にブレていたのも気持ち悪くて面白かったな。自分は「視聴者」であり影響はないと思っていたのに、影響を受けていつの間にか「その一部」になってしまう展開。これも考えようによってはテレビあるあるだし、いいね。

怪文書の思い出


ついでに思い話をするけど、友人の家に遊びに行く途中にヤバイ家があった。見た目は普通。壁や塀が家主を主張することもなく、普通に周囲の町並みと調和した一戸建てだった。普通に1台分の駐車スペースがあり、普通の自家用車が置かれている時が多かった。

普通じゃなかったのは、その駐車スペースにぽつんと置かれた紙袋の中身。ちらりと見える紙束からには、きっちりみっちりと手書きで書き込まれた怪文書らしきものがみえる。Wordを使ったように整った見た目が逆にこわい。

友達の家に行くたびに確認するけど必ず同じ場所にあり、風雨で傷んだ様子もなかった。毎日新しいものと交換されているのか?それに、家が普通ということは、紙袋を置いているのはこの家の者ではなく、むしろ住人は被害者か?などなど、友達の家に着くまでにあれこれ想像しながら歩いたものだ。

いつかじっくり読んでみたいと通り過ぎるたびに思っていたものの、そこそこ人通りのある場所だったので紙袋を見つめる以上のことはできなかった。

ある時、珍しく駐車スペースの柵が開いており近くまで寄れるタイミングがあったので、つい敷地内に入って手を伸ばせば届く距離まで紙袋に近づいたのだけど、結局そのまま引き返してしまった。だって、それを手に取った瞬間、何が起こるかわからなくて。

オチもなければ話す機会もないので、ここに書いて供養しとくわ。


『祓除』はもうすぐ配信終了しそうだけど、TVerなら本日時点で「配信終了まで1週間以上」となっているよ。もし気になったら見てみてね。



そういえば、あれ知ってる? 殺人事件現場になった部屋の窓がひとりでに閉まる様子が偶然映り込んだニュース映像。リアタイで話題を見ていたこともありガチだと思っているものの、演出のクオリティが高すぎて逆にフェイクのようでもある。『祓除』はこの延長線上にあると思うし、実際世の中はこんな調子だ。だから、祓除は必要だったと思うよ。

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