これが『我々の望んだ姿』なのか…?『We Become What We Behold』
その銃声を耳にするまで、私は「自分が何をしたのか」に気付かなかった。それどころか銃を構えた人物を撮影した時でさえ、"いいね"が大量につく予感に喜んだだけで、誰かが死ぬという事にはまるで思い至らなかった。
「私は悪くない…」
誰に咎められたわけでもないのに、幼稚な自己弁護が口からこぼれる。
私はただ承認欲求に従って、群衆が見たいものを、もっと刺激的な情報をと、望み通りに提供しただけだ。群衆が勝手に見て勝手に毒されただけだ。私は悪くない。悪くないと思いたい。
試しに1枚、撮った写真に反戦の意を添えてSNSに流してみたが、すぐに恐怖と怒りの感情を伴って拡散されていった。群衆はもう止まらないし、反戦のメッセージは刺激に欠けるからバズらない。
どうせこの事件も「一発の銃声が争いを招いた」と報道されるのだ。
その通り、発砲した人間が悪いに決まっている。私は何もしていない。
私は悪くない。
てなわけで『WE BECOME WHAT WE BEHOLD』を遊んだよ。
プレイ時間5分だし暇つぶし程度かなと油断していたら、まったく予想していなかった展開と、じわじわと自分に返ってくる後味の悪さにハートを掴まれてしまった。最高。
タイトルは雰囲気訳なので細かなツッコミはやめてほしいけど、自分たちは思っている以上に見たものの影響を受けて変わっていくし、騙されやすく思い込みやすいってことだね。個性やアイデンティティと言っても結局は影響されたものの集合体で、人それぞれ構成が違うだけなんだろうな。
最初こそプレイヤーが仕掛けたとおりに踊る群衆は愚かだなあと他人事のように感じていたけれど、複数回プレイを繰り返すうちに、もしかしたら自分すら「もっと刺激的なものを」という認識に縛られていたのではないかと思い始めた。タイトルの回収がうますぎるね。
同じ作者の『群衆の叡智または狂気』を踏まえて色々言いたくなったことがあるので、それはまた余裕があるときに!