原子仮説
ファインマンが教育者としても熱心だったことは有名ですが、いきなり序文から彼が講義の効果についてかなり悲観的だったことは、次のGibbonの一文を引用していることから窺えます。
The power of instruction is seldom of much efficacy except in those happy dispositions where it is almost superfluous.
受け身の学生はほとんど得ることがないし、逆に問題意識を持って取り組む主体的学生にとっては表面的なものに留まってしまう。
授業は実はいらないのかもしれない。特にいまの時代なんでも教材はネットで手に入ります。しかも無料で良質なものがごろごろしている。ただし、ファインマンも序文で述べていますが、教師と生徒の一対一の関係には固有の価値がある。私も師匠にたくさん迷惑をかけて育ててもらいましたが、徒弟関係というのでしょうか、技術の伝授の方法として非常に優れている。これは一対多の授業とは異なり、知識を与える側と受けとる側の間に緊密な双方向性があるから。
さらに付け加えるならば、教師は学びをコーディネートする役目を果たせます。ネットでなんでも手にはいるからと言って、個人の学びが最大化されるわけではない。場合によっては蛸壺化の弊害もある。それに人は全く異なる視点を持つ他人から多くを学びます。教師は生徒が主体的に参加し、実践的な学びを得るフレームワークを設計することができます。そこでは教師は知の伝達者ではなく、媒介者となる。この意味で教師とは非常に難しく、また創造的な職業だと私は考えます。
コロナの影響で、授業の固定化された形態が一度壊され、新しい形を模索して再生しようとしているいまの混沌が、このさきどのような世界を創っていくのか。教師の方々には、教育の本質と向き合うための機会が与えられているように思います。それは大学でも高校でも、中学でも小学校でも同じです。
個々の教育の場で、この新たな状況に適応する方と、それに追従する方、受け身で何もしない方、という風に極化していく。手段にとらわれず、いかに生徒の学びを最大化するかに心を傾けてきた教師が、これからの教育をかえていくことを期待しています。
もう物理あんまり関係ないが。タイトルに原子仮説と書いてしまったので最後に。ファインマンはもし人類の叡知が破壊され、一文だけ後世に遺せるとしたら、この原子仮説をとると言っています:
All things are made of atoms -- little particles that move around in perpetual motion, attracting each other when they are a little distance apart, but repelling upon being squeezed into one another.
この仮説からいかに多くの現象を簡単に説明できるか、実際にファインマンは例示していきます。物事の説明が二通りあったとき、仮説がシンプルな方が真実に近いという経験的に得られた原理がファインマンのこの選択に働いていまると思います。(オッカムの剃刀。)
日常的にも、レゴのブロックのように、基本的単位が離散的であっても、それらの複雑な組み合わせが驚くほど多彩な構造を生むことは経験できます。だから自然界もそういうミクロな基本単位からなっていて、それらの配列の仕方で異なる現象が生まれると考えることに無理はないですよね。