【座談会】未来の都市に緑をつないでいくために。人文学の視点から語る(『都市の緑は誰のものか』刊行記念)
座談会開催の経緯について
吉永 今回の座談会のテーマは「都市の緑をなぜ語るのか」です。きっかけになったのはこの9月に『都市の緑は誰のものか』という本を刊行したことにあります。
今、東京や大阪などの都市で樹木の伐採をはじめとする再開発が問題とされています。東京ですと、神宮外苑再開発問題が注目を集めていますけれども、ここ数年、全国のいろいろなところでも話題になっています。
特に神宮外苑再開発について、昨年(2023年)、私と太田和彦さんが中心になって、人文系の研究者の側から何か発言することがあるのではないかという問題意識のもと、1回目のワークショップを開きました。その後、トークの内容を本にまとめようということになったのですが、その際、神宮外苑の問題だけではなく、未来に緑をどうつないでいくかということを、もっと大きな視点から考えようということで、今日登壇されるルプレヒトさん、穂鷹知美さん、そして高橋綾子さんに加わっていただいて、本にまとめました。
前回のワークショップでは、北條勝貴さん、鬼頭秀一さん、青田麻未さんと私が話したので、今回はルプレヒトさん、穂鷹さん、そして太田さんとで、この本をめぐって座談会をやろうということになりました。なお、太田さんは第1回目のワークショップにも参加されていましたが、司会の立場でした。
前回は神宮外苑について話したのですが、今回は一つの事例にしぼらず、日本全体の大問題として、都市の緑はどうあるべきかを考えていきたいと思います。まず、3人にご自身の書いた章の内容を簡単に説明していただき、その後、フロアからいただいている質問にお答えしながら、話を進めていきたいと思います。
ではまず、第4章を執筆した太田さんからお願いします。
グリーンインフラとはなにか
太田 南山大学の太田と申します。私と、本日登壇する穂鷹さん、クリストフさんはこの本『都市の緑は誰のものか』の第2部を担当しています。読まれた方はもうだいたいおわかりになると思いますが、この第2部は事例編という位置づけです。第1部が神宮外苑という一つのケーススタディを出発点として議論をしています。それに続く第2部は様々なケーススタディを扱いながら、都市の緑について考えていく内容になっています。そして第3部はもうちょっと抽象的に、環境美学と環境詩学の観点から、都市の緑について考えていくという構成になっています。
さて、それでは第4章「都市の生きた遺産としてのグリーンインフラ」について簡単にお話していきます。ここにお集まりの皆様はおそらく、グリーンインフラという言葉自体は聞いたことはあるでしょうし、場合によってはご専門の方もいらっしゃると思いますが、一応前提を揃えるというところでお付き合いください。
グリーンインフラ (グリーンインフラストラクチャー)は、自然の機能やプロセスを活用して、都市の社会的・環境的な課題解決を図るアプローチやインフラを指します。公園や緑地は典型的にグリーンインフラですね。街路樹もそうです。これらはヒートアイランド現象の緩和、雨水の吸収、炭素吸収、騒音軽減、環境美化等々、いろいろな我々の社会生活を支えています。従来の人工的なインフラストラクチャー、たとえば、上下水道やガス菅(「グレーインフラ」)などと組み合わせることで都市の持続可能性を向上させます 。
では、実際に都市緑地はグリーンインフラとして働いているのでしょうか。これについてはシステマティックレビューがたくさん出ています。たとえば、都市緑地がいかに人々のウェルビーイングに寄与するか、メンタルヘルスや健康との関係、あるいは子供の学校の成績との相関関係、ヒートアイランド現象の緩和など、 様々な面が都市の緑地によって支えられていることがこれらの論文からわかります。特にグリーンインフラに関する文献でよく出てくるのがレジリエンス(resilience)という言葉です。
レジリエンスは、弾力、復元力、耐久力などという意味を持つ言葉です。困難な状況に直面したときにうまく対応して、その困難な状況を乗り越えていく力のことを指します。たとえば、 レジリエンスが高い都市というのは、台風が来ても、あるいは地震が起こっても、パンデミックに襲われても、ちょっとやそっとのことではすぐに回復不能なダメージを負わない。すぐに回復することができる都市のことを指します。
レジリエンスという言葉は別に都市だけではなくて、「生態系のレジリエンスが高い」「人のメンタルのレジリエンスが高い」といった使い方もされています。重要なのは、レジリエンスとは困難の後 、単に立ち直るだけではなくて、次にその困難が同じようにやってきても対処できるように、前に向かって立ち直る能力を指すという点です 。最近、都市緑地の役割として注目されているのが、このレジリエンスを高めるということです。
実際に 緑地によって都市のレジリエンスを高めようという取り組みは、日本でも 国交省が進めていますが、 欧米諸国では強く言われています。たとえば、アメリカには「The Trust for Public land」というサイトがあって、全米各都市の公園をより詳細に評価し、パークスコアというランキングを発表しています。それぞれの都市の中に緑地がどういうふうにあるか、それぞれの緑地に人々がどういうふうにアクセスしやすくなっているか、といったことが全米の州ごとに一目でわかるような仕組みになっているのです。
グリーンインフラの3つの特徴
次にグリーンインフラの特徴について話します。
特徴の1つは緑地が互いに繋がって複数の目的を果たすということです。1つだけポツンと、あるいはバラバラに点在しているだけではグリーンインフラとは呼びがたい。いくつかの緑地がネットワーク状につながっていることで、ヒートアイランド現象の緩和や、災害から街を守る、美しい景観をつくる、リラックスしたり、運動したり、子どもたちの教育の場所にもなるなど、つながることで複数の目的を果たせる場所になります。この緑地を結ぶというのがポイントで、たとえばアメリカの・ジョージア州のアトランタ市には「ベルトライン」というのがあります。これは市の中心部を囲むようにあった鉄道の廃線跡地を、全長33マイルの遊歩道、緑道網として整備し直して公園をつないだもので、観光名所になっています。これを発案したのは大学院生で非常に面白いプロジェクトです。
グリーンインフラの2つめの特徴は、緑地をつなぐだけではなくて、行政、NPO、NGO、企業、周辺に住む人たちなどいろいろな関係者たちもつながり、それぞれの知識や洞察、懸念を共有していくということです。
グリーンインフラプロジェクトは、規模や目的が多様のため、計画策定と運営には、都市計画者、デザイナー、環境専門家など多分野の専門家の協力が不可欠です。そうしたチームワークにより、複合的な課題解決と多目的空間の創出が可能になります。また、地域コミュニティの知識や懸念を理解することも重要です。多くの関係者を巻き込むプロセスは時間がかかりますが、それが効果的なグリーンインフラ計画の鍵となります。
しかし 、グリーンインフラ は、完璧な計画がありさえすればうまく機能する ものでもありません。地域コミュニティの理解と積極的な参加が不可欠で、計画の開始の段階から参画することが重要です。これは3つめの特徴です。
グリーンインフラの効果については基本的には定量的に、数値として測ることができます。例えばヒートアイランド現象がどのくらい緩和できたかとか、街に住んでいる人々の健康度がどのくらいあがったかなどで、これは生態系から得られる恵みである生態系サービスのなかの「調整サービス」や「供給サービス」にあたります。ただ、本書では、あまりそこには焦点をあてていません。相対的に注目されにくいグリーンインフラの文化的社会的価値、つまり「文化的サービス」について主に書かれています。
遺産としてのグリーンインフラの価値
グリーンインフラというと最近作られたものをイメージされるかもしれないですが、まったくそんなことはありません。 都市の歴史と共に発展し、遺産として残り続けている公園や小道なども、グリーンインフラです。グリーンインフラは我々の都市の生活を支えるものでもあると同時に、次の世代に残すべき遺産、残されてきたし、残していく遺産(ヘリテージ、レガシー)です。どのような都市のグリーンインフラが、どのような意味で都市の遺産となるかは都市によって異なります。
たとえば、下の写真、ドイツ・ベルリンの並木道はグリーンインフラでもありますし、同時に歴史的な遺産と位置付けられるでしょう。このあたりに関して、第1章で北條先生が詳しく言及していますが、我々の住んでいる都市の歴史はそこの場所の緑地にも大きく刻まれていることがあります。我々のヒューマンスケールは大体60年から80年くらいで終わってしまうのですが、樹々はもう少し長く生きるものが多いので、それらに刻まれている都市の歴史というものは当然あるわけですね。
遺産としてのグリーンインフラというときに、何が新しく浮かび上がってくるのかというと、基本的には我々の都市への愛着です。私たちが守りたいのは、いわゆるグリーンインフラそのものというよりはこの町に生えているこの場所のこの樹木だったりするわけですね。つまり思い出であったり愛着であったりという部分が強くあるわけです。他の人にとってはこの日は普通の1本の木かもしれないけれども、私にとっては私が小さい頃からずっとここにあって、セミを取ったりとか木登りしたりとか木陰で休んだりとか、いろいろ思い出深い、私のこの都市での思い出深い樹なんだという話は、これまではいわゆるグリーンインフラの話としては、 なかなか触れることができなかった。
でも、グリーンインフラの遺産としての側面に注目することで、個々人の愛着であったりとか、定量化することが難しい価値、数値化することが難しい価値について話すことができる、正当性が生まれます。「それはあなた方のお気持ちですよね」 ではなくて、いやこれは遺産としてのグリーンインフラの価値を守ろうとしているんです、というふうに、 議論のための通路ができるわけです。
ではどういうふうにその価値について語れば良いのでしょうか。さきほど定量化することが難しいとはいいましたが、可視化することはできます。数値化することはできないんですけれども、地図にここにある木はこういう木だよというかたちで、マッピングすることによってその木の重要さを他の人も確認することができるようになります。
例えばニューヨークシティ・ツリーマップというのがあるんですけれども、これはニューヨーク市に生えている木全部がプロットされています。これはどんな木なのか、街路樹の1本1本に適用されています。また、オーストラリアのメルボルンでは、2013年から街にある木々を管理するために、7万ものすべての樹木にIDとEメールアドレスを作って、たとえば害虫が発生してたいへんなことになっている、あるいは嵐で枝が折れている、というような情報を届けたり、いつも木陰をありがとう、という御礼のメールが届くようにしています。
1本1本にアカウントをつくることで、木が折れているような情報だけでなく、この樹木との関係や思い出などをログでためることもできます。要は食べログみたいなものですね。それは1本1本の樹木の思いや思い出の可視化することになります。それが都市の遺産としてのグリーンインフラの、遺産としての側面を可視化するときの重要な一歩になるのではないかと考えています。
ドイツ語圏のスポンジシティ構想
吉永 太田さん、ありがとうございました。では次に穂鷹さんにお願いいたします。
穂鷹 ヨーロッパではコロナの危機、猛暑やゲリラ豪雨などの極端な天候、また高齢化や住宅不足など深刻な問題に直面しており、望むと望まないにかかわらず、これまでの都市の空間のあり方が維持できなくなってきています。同時に、そのことが広く認知もされてくるようになってきました。
では実際にどう変えていくか、変わっていくかということになりますが、第5章では、気候変動への対応と再開発という二つのちょっと異なるトピックで、事例を紹介しながら、ヨーロッパの都市の空間においてみられる未来の都市の輪郭みたいなものを浮かびあがらせることをこころみました。以下、5章の内容についてほかの画像も補足しながら、紹介させていただきます。
まず都市の政策において気候変動対策の優先順位が押し上げられています。もともと緩和をするという大きな課題があったわけですが、これに努めるだけでは事足りず、気候変動に適応するような都市に迅速にしなくてはいけないと言われるようになってきます。
そこでドイツ語圏で頻繁に言われるようになったのが、スポンジシティ構想というものです。これは日本のスポンジ化する、空洞化する都市っていうのと全然違う意味合いでして、スポンジのように都市の保水率を高めて、水循環を最適化させるという構想でありその手法のことを言っています。
世界的に1990年代から広がってきた手法ですが、ドイツ語圏では2010年代頃からスポンジシティというわかりやすい名前で広がってきたといえます。これを図面化したのがこの図です。これはハンブルクの例なのですが、一方では保水し、一方では緑化をしている。土壌に雨水を浸透させたり屋上とか壁面緑化したり、タンクを下に入れて保存するなどして、雨水をその場で引き受けて、下水にはほとんど流されないようにする、そういう構想です。
これはつまり災害が起きたときに、その場所で対応するというのではもはや遅いので、いかにそうならないようにするかを重視する考え方だといえます。大雨が降る前の段階で予防措置を広範に行うことを徹底化するということです。そのために機会あるごとに、ありとあらゆるレベルで、またあらゆる規模で、とにかく街の中を改変しようとしていて、例えば改築や道路工事するときには屋上緑化させたり、親水性の高い素材に変えたりということを進めています。
それと同時に、都市計画や建築のルール、標準的な基準、ISOなども気候変動に合わせて見直すという作業が行われています。下の写真は(写真下)ベルリンで最近新しくできたこのスポンジシティ構想に基づく新しい住宅の一部です。
次の写真はフランクフルトの壁面を緑地化させる一つの例です。
開発しない再開発を可能にしたのは何か
都市に困難な問題とか新たな課題が迫ったときにどう対応するかというと、まずは法律や政策で仕組みを変えたり縛っていったりするというアプローチになると思いますが、第5章の後半では、全く違うアプローチの事例を取り上げました。スイスのチューリッヒ近郊に、ヴィンタートゥーアという人口12万人くらいの都市があるのですが、そこの再開発について取り上げました。
ヴィンタートゥーア中央駅のすぐ横に、ラーガープラッツという4・6ヘクタールの大きな旧工場跡地があります。世界的な機械メーカーであるズルツアーという大企業の主要な拠点として19世紀前半から栄えてきたのですが、1980年代に経営が悪化し、1988年に全面閉鎖になりました。
その後、再開発計画がいくつかあったのですが、結局うまくまとまらなかったので、オーナーであるズルツアーは半年や1年といった短い期間、安い家賃で暫時的にテナントに入ってもらう形をとりつづけました。2006年までの20年弱、このようなテンポラリーな利用のされかたが続く間、若い人たちのスタートアップやクリエイターたちなど多種多様なテナントが入って、この一帯は、次第に若者文化の新しい拠点として、活性化されていきます。そして、2006年に再度、再開発計画が浮上したときには、このテナントたちが一つの協会を作って結束し、スクラップアンドビルド型の開発にしないようなオーナーを探そうと動き始めました。
最終的には2009年に新しい地主を見つけてこの一帯を一括して買い上げてもらって、その後テナント、住民、建築家、行政など共同的に臨む再開発を実現してきて今日に至っています。現在、この一帯はこんな感じになっています。
上の写真を見ておわかりのように、100年前から建てられた歴史を感じる工場をほとんど壊すことなく、それを使う形で多目的な施設になっています。
このようなオルタナティブな再開発が可能になったのはどうしてなのかを章の後半で考察しました。
いくつかのキーとなるような要素があったと思います。一つは先ほど申し上げましたテンポラリーユース、暫時的に使ってもらうという形でいろいろなテナントが入ってきたことです。これはまさに社会実験という感じで、いろんなことをそこで試すことができて、その中で少しずつ地域のそこにしかないような価値が生まれて、魅力が認知されていき、地域が活性されていったといえると思います。
もう一つ重要なキーだったのが時間そのものだったと思います。時間が経つうちに、時代の価値観、価値評価自体が変わっていって、スクラップアンドビルドよりも、むしろここの工場跡地という歴史的なものを使った持続可能な開発にした方がいいのではないか、という風潮が強まっていった。そういう価値観が20年弱という短いタイムスパンですが、主流になっていった。
その間に、持続可能な開発を可能にするような建築や再開発のノウハウがだんだん蓄積されてきて、こういう風潮をバックアップするようなことになっていきました。開発しない再開発に賛同する人がどんどん増えていって、最後は反対する人が、オーナー側にもいなくなり、再開発がスクラップアンドビルドしない形にすんなり帰着しました。
一般論として、大きな対立があって解決が難しいことや、想定しにくい事象では、すぐに最善の案に落ち着くことは難しいと思います。人はすぐに解決を求めるものですし、また未来を想定するのは、必ずしも現時点の人たちは得意ではありません。こういう際には決断をすぐにしないで、数年間とか時間を稼いで持ち越すことにはある意味、利点があるのではないかと、この事例からすごく感じます。
何より古くあったものをつぶさないで残しておくことができたことで、後に選択肢を残すことができた。これはものすごく大きいと思います。これは再開発という建物に関することですが、開発する人間の考えている理想とは違う速度やテンポで動いている植物や自然の展開においても、問題や同じような傾向が見られるということもあるのではないかと思います。例えば街路樹は大きくなって日陰を作れば誰も反対しないですごくいいと思うかもしれないですが、樹木はすぐに大きくならないし、すぐに日陰をつくることはできない。現時点でそのことを想像して、やっぱり取っておこうというふうにはなかなかならない。そういう想像力の乏しさが、理想と違う現実になっていくという、齟齬を生み出すということがあると思います。
なので、未来の選択肢をつぐむことが実際に多いということを、やはり私たちの中で心構えしながらでないと、再開発の問題はバランスがよく考えられないのではないかと思います。
この協会は自分たちにとって理想的なオーナーを最終的に見つけたのですが、そのオーナーを見つけるお手伝いをしたのが、イン・ジィトゥというバーゼルにある建築事務所です。その人たちも再開発に積極的に関わる事務所なのですが、そこの事務所のポリシーが自らの建築をレヴィ=ストロースのブリコラージュになぞらえて、すでにあるものを最大限生かしながら、建設するということを自分たちの建設というふうに言っています。同時に建築とか開発をオープンエンドであって完成ではない。第2章で鬼頭先生の「半栽培的」という概念を紹介されていましたが、それにちょっと似ているというか、オープンエンドで完成させない形で置くというスタンスがちょっと面白い建築事務所です。
この建築事務所がラーガープラッツで2021年に、中古の材料6割を使った建築を作りました。工場の上に増設された3階部分がそうです(下の写真)。
材料としては地元の閉鎖された印刷工場の壁面に貼ってあった板やガラス窓、窓は全部かたちが違うんですが、それらを再利用し、ワラの断熱材も入れて作ったのが以下の写真です。階段部分もどこかからもってきた中古の再利用です。
ラーガープラッツはもともと19世紀の後半から蒸気機関車を作っていたところなんですが、1930年代にチューリッヒの近くを走っていた路面電車を持ってきて、レストランにしています。
これは余談ですが、今年の7月末に世界のクーリエ、自転車配達員の世界選手権の一部が開催されたのですが、ここが中心的な拠点となりました。この場所は車の進入が最初から禁止されており、自転車天国の場所です。その意味で地域の特色を生かしたイベントだったなと思います。
緑を最大限生かす都市はかっこいいという時代へ
最後に合意形成についても少し考察を加えさせていただきます。世界中のほかの地域同様、ヨーロッパでも限られた都市空間を巡り激しいやり取りが繰り広げられているとことに変わりはありません。これまでの主要なステークホルダーであるとされていた、健康で経済的に恵まれて車を運転する男性に象徴されるようなアクターだけでなく、歩行者や子連れ、女性、高齢者、移民など、これまであまり可視化されてこなかったような多様な背景を持つ人たちもまた、都市空間という限られたリソースへのアクセスや権利を求めるようになってきて、いわばパイの争奪戦のような様相であると言えます。
このような対立は一方であるんですけれども、その一方で、猛暑やゲリラ豪雨などの氾濫の危険だとか、都市中心部の空洞化などの問題、あるいは緑から恩恵を受けることなどは、すべての住民にかかわる問題です。
防災や緑の恩恵などは、ロビーがはっきりしていないので、誰にとっても必要であるにもかかわらず、どうしても立場が弱かったり、不利な立場に置かれるのが常ですけれども、未来の人も含めそこにいるすべての人にも関連することで、恩恵を与えるものであるということを出発点にして、都市の空間の再構成とか割り振りを再構築していく、そういう時代になりつつあるんじゃないかなと思います。
まとめとして、スクラップアンドビルドしない、緑を最大限生かすことが都市でかっこいいことになりつつある。それが当然となる。そんな路線が少しずつヨーロッパの都市の中では見えてきたような気がしています。
テンポラリーユース、リユースやプリコラージュといったことをベースにして再開発することについては、世界中どこで日本も含めどこでもノウハウを共有していけば、実現がよりしやすくなるでしょう。ただ、これを理想として認知するところまでは共有できても、それではやはり不十分であり、ここは、わかっちゃいるけどやめられないという惰性から一歩出て、踏ん張りどころで、これから持続的で快適な都市空間を実現するために、どこまでやっていけるか、そういうことが、世界中の都市に問われているんじゃないかと思います。
都市は果たして人間だけのものか
吉永 穂鷹さん、ありがとうございました。では続きましてルプレヒトさんに6章を紹介していただきます。
ルプレヒト はい。皆さん、こんばんは。ルプレヒト・クリストフと申します。
第6章では、人間だけではなく、すべての生き物のための都市というものを考えています。そこまでの道を少し説明すると、本の大きな質問として「都市の緑は誰のものか」があるんですが、6章ではそもそも「都市は緑なのか」というところから入っていきます。
なぜかというと、長い間専門家であっても一般の人であっても、都市と自然とは別で考えられていたんですね。自然は都市の外にあるもので、あまり人間が関わらないようなところだと。特にヨーロッパやアメリカではそういう考えが強かったわけなんです。
ただ、都市の中にも少しは緑があるのではないか、少しは自然があるのではないかと気づいた生態学者もいました。どのようなところかというと、小さいところ、私たちの普段の目にはあまり入らないようなところに、緑があります。
そして緑だけではなく、様々な生き物がそこにはいます。そこからだんだん視野が広がって、都市の緑を新しく考える機会となって、都市の生態学が生まれてきました。ただ、生態学者はそういうふうに気づいたんですが、他にも気づいた人たちがいました。そこで、「誰の緑」の「誰」について少し6章の中で考えています。
子どもは遊ぶために公園に行くと思いますが、実は公園はわりと遊び方が限られています。特に公園の中の自然、公園の中の緑は、場合によって決してそんなに豊かではない。けれども、じつは都市の中に自然なんてないと思われていたときから、子供たちは緑地とは認識されていない場所に自然を見つけていました。
下の写真は私が札幌でフィールドをやったときに撮ったんですが、空地の中に子供が遊んだ後という風景なんですね。生態学者だけではなく、もうすでに子供は、そのような都市の自然と触れていたわけです。
では、その都市は人間だけのものでしょうか? 都市空間について議論するとき、人間のことだけを頭に置いて話すことが多いですが、 ここで6章の中で紹介している図についてふれていきたいと思います。
上の写真は札幌の公園で撮った写真です。朝6時半ごろ、普通に札幌の真ん中をキツネが走っているんですね。本の中では、住民はそういう他の生き物と、都市を共存して使うことについて、どう考えているかについての調査の結果も紹介しています。それが下の図です。
都市の問題は地球環境問題につながっている
さて、都市の再開発がいろいろと問題とされていますが、人によっては、特に地方に住んでいる方によっては、それはあくまでも都市の問題で、私たちに関しては豊かな緑が近くにあるので都市問題は都市で解決すればいいのではないか、という考えをおもちかもしれません。
しかし、都市の問題は都市だけの話でしょうか。じつは、都市の自然は、地球環境問題という大きなところに繋がっています。第6章では、そのような大きな話も少しさせていただいています。
一つは、人間が環境に対してどれぐらい影響しているか、負荷をかけているか、その指標のひとつとしてエコロジカルフットプリントがあります。日本全体で考えれば、すでにそれなりに大きいんですが、実は都市が大きくなればなるほど、エコロジカルフットプリントが大きくなっています。
まだまだ東京が一番発展している、東京が一番進んでいるという考え方をする人が多いのではないかと思うんですが、持続可能性から考えると、実は逆かもしれません。都市が小さくなればなるほど、その1人当たりの住民のフットプリントは小さくなっています。
もう一つは、持続可能性、これからもずっと豊かに暮らしていけるための水準がどれぐらいなのかというと、実は非常に低いのですね。現在の都市は、ローカルだけではなく、地球規模の環境破壊に繋がっています。
なので本当にこの地球を、自分のためでも私たちの子供のためでも他の生き物のためでも守っていきたいのであれば、都市を根本的に考え直す必要があります。
では、地球をこわさない都市というのがありえるのでしょう。
現在の私たちが生きている社会のメタボリズム――生物と物質との関わり方のことですが――実は私たちの社会は「成長期のメタボリズム」で、「効率」「搾取」「集約」「私的所有」などに非常に集中しています。都市に限らず、違うやり方に切り替えるためには、おそらく違う社会メタボリズムが必要なのではないかということを第6章で少し議論しています。
どのようなメタボリズムかというと、「ポスト成長期のためのメタボリズム」で、「充足」「再生」「分配」「コモンズ」「ケア」などの概念が重要になってきます。このような概念を中心において、都市のあり方を考え直す必要があるのではないかと考えています。
すべての生き物のために都市をデザインするとは?
ただ、本当にそれを実現しようと思えば、人間だけではなく、すべての都市の住民のためのデザインが必要です。ではどのようにすべての生き物のために都市をデザインするのでしょうか。第6章の中では、例えばランドスケープデザイナーと手を組んで、これから日本の多くの都市で増えていく空き地を使って、人間だけではなく、人間と人間以外の生き物の暮らしの両方を豊かにしていく術を探っています。
その実践は現在私が今所属している愛媛大学のキャンパスの中でも行っています。普通の、少し夢のない国立大学のキャンパスを使って、学生、教職員、地域の方だけではなく、他の生き物のためにも、より豊かな場所にするようにいろいろと工夫しています。このようなデザインを使って、まず議論をスタートさせて、私たちが想像できる都市というものをより豊かをしなければいけないのではないかと考えてます。
最後に6章の中身をもう少しだけ紹介します。たとえば、昔と比べて子どもが実際に自然と触れ合う機会と時間がだいぶ減ってきていること、自然の中に様々なタイプがあること、動物や植物に限らず、微生物の役割に注目が集まっていること、持続可能性そのものの考え直し、どのように都市政策を他の生き物のために作れるのか、そして最終的にどのように私たちは都市を人間だけではなく、すべての生き物と共存できるようデザインするのか、そのためには想像力をさらに高める必要があるという話を6章でしています。私からはこれで以上です。
再開発の何が問題なのか
吉永 ありがとうございました。ここで私から交通整理的なコメントをしたいと思います。1つ目は都市における「自然」についてです。再開発に対する反対運動があるとともに、そうした運動に対する批判も目にします。都市の自然を守る運動は、個人の趣味の問題だとかノスタルジーだといった批判です。そうした批判の中に、都市は自然がない地域なのだから、建物を建てるのはしかたがないといった言説があります。けれども、それは端的に間違っていて、都市のなかにも豊かな自然があります。それはルプレヒトさんが指摘した通りだし、それをむしろ活用していこうというのが、太田さんが紹介したグリーンインフラの考え方ですね。都市のなかにも豊かな自然がある、それを顧みないことが再開発の問題の1つです。
それから2つ目は、実現可能性です。再開発批判といってもじつはすべての再開発が駄目だと言っている人はあまりいません。この特定の場所のこの開発にこういう問題があるといっているわけです。その開発のこういうやり方がおかしいというからには、どういう再開発だったらいいのかと言われるわけですが、それに対して、穂鷹さんの発表の中に、応答のヒントがあるわけです。ヨーロッパには、スクラップアンドビルドしない再開発の事例があるのです。
3つ目は都市の緑の機能について。都市の緑にはどういう機能があって、どういう役割を果たしているのか、それについても3人からお話がありました。スポンジシティだったりグリーンインフラであったりということですね。これが今問題になっている各地の再開発、樹木の伐採や建物の破壊に対する、この本の1つの答えを提示している部分だと思います。
公園が少なくなると、子どもにも影響がある?
吉永 では次に、フロアからいただいている質問に報告者が答えていきます。
まず1つ目は「子供たちの自由な遊び場である公園が消えていくと、子供の成長にも影響があるように思いますが、子供への影響どんな影響があると思われますか」という質問です。これはルプレヒトさん、いかがですか。
ルプレヒト 質問ありがとうございます。はい、おそらく影響はあります。もちろん子供はすごく頭がいいので、公園以外にも遊ぶチャンスをたっぷり探して見つけるとは思うんですが、だからといって公園は大事じゃないというわけではないんですね。
今画面に出している図は、私が行った認可外保育士が感じる自然体験の大切さと達成度について調査した際のデータです。
ご存知のとおり、日本では都市によって保育園がたりなかったりします。特に東京だとその問題が顕著だと思うんですが、その関連で認可外保育施設が作られています。その特徴としては園内に屋外遊戯場をもたない、あるいは狭いということがあります。なのでそういう認可外施設は野外遊びを子どもたちにさせるために公園を使ったりします。
けれども、都市の公園ははたして子どもたちにそのような経験をさせるだけ十分なものといえるかどうか。このデータからは、保育士が望ましい自然体験だと考えていることと、実際に提供できていることとのあいだに大きな乖離が存在していることがわかります。つまり、子どもの発達に影響をもたらす自然体験を十分に提供できていないと保育のプロたちが感じているということですね。子どもたちへの影響を考えても、公園はもちろん、都市のなかの様々な緑地はもっとふやしたほうがいいと考えています。
災害の多い日本、何に配慮すればよい?
吉永 次に災害の視点からの質問がきています。「今回事例として紹介されたヨーロッパと日本では起こりうる災害が異なるので、日本に適応させようとするときには何に配慮すればよいとお考えですか」。つまりヨーロッパではうまくいくかもしれないけれど、日本では事情が違うのではないか、とくに日本では災害が多いので、その点どうなのかということですね。
それと似たような質問でちょっと観点が違いますが、「日本の場合は放っておいたらいくらでも草が生えてくる。日本は樹木に対する価値づけが低いのではないか」。日本とヨーロッパの違いですね。それについてどう考えるかと。あるいは日本の社会が緑に対して意識を高めるにはどうしたらいいかという質問もいただいています。これは風土という意味では全員に関わることではありますが、太田さんから何かありますか。
太田 まず防災という点で言うと、私は今年春からスペイン、ハワイ、オランダ、シンガポール、 に出張で行ってきたのですが、基本的に台風の有無はすごく大きいなと思いました。つまり、台風で枝が折れることが想定されているか、いないかということでいえば、私たち日本では想定しないといけないのですが、それを想定しなくてもよい地域では枝をかなり張り出すことができる。うらやましいと思いながら街を歩くことも多かったです。 ちなみに都市国家シンガポール の緑化は、1960年代の高度成長期に全島規模の植樹運動(「ガーデンシティ政策」)から始まる息の長いものです。 緑の多い都市ということではなく、森の中に都市があるようにしたいというのが、現在 のコンセプトということでした。
それで、防災に関してですが、グリーンインフラの私の章のところでお話ししたように、どこかでうまくいっているものをそのまま日本に移植するとうまくいくわけではありません。自分のいる場所、その場所の風土性をまず知ることが防災の第一歩になると思います。ただし、台風がくる、枝を張りだしていると危険だ、だから強剪定やむなしなのかというとそんなことはなくて、台風に強い木はどういうものか、それをどうやって植えればいいのか、適切な管理をしていくために樹木医の診断をどの程度の期間でお願いすればいいのかなど、いろんなやり方があるわけですね。例えばシンガポールの緑地保全 は、多くの人手と知識時間とお金をかけることで成立しています。日本もやろうと思えば多分できないことはありません。今だったらまだできることはたくさんある。
あと、 いわゆるソフトインフラを密接にする場所としてのグリーンインフラという側面 もあると思います。これはオーストラリアで行われた調査ですが、COVID-19があったときに室内で会うことができなくなったため、 人々が公園で会っていた らしいんですね。 それまでそんなに公園を利用していなかった人たちもCOVID-19で公園を利用するようになって、 たとえば情報交換であったりとか、励ましであったりと いうソフトネットワークの恩恵に浴することができるようになった といわれています。
なので、 台風などの影響を考慮した 予防対策 と、防災時に人々が集まれる場所になるようにしていくということ。この2つがグリーンインフラと防災を考えるうえで重要だと思います。
避難所としての公園、災害を考えれば緑地はふやすべき
吉永 ありがとうございます。同じ方から追加の質問です。「都市のそばであっても地震による地滑りや土砂崩れもあります。能登で地震がありましたが能登だけの特性ではない」というご意見がありました。これに対して、少しだけ口をはさみますと、開発を全くしない、つまり管理を全くしないことによってそうなることもあれば、開発したがために、脆弱になって地滑りするという両方あると思うんですね。ですから、そこで問われているのはどのくらいの手入れが必要なのかということです。ルプレヒトさん、なにかありますか?
ルプレヒト 太田さんから台風の話がありましたが、防災の観点から考えるからこそ、都市の緑地は大事なのではないかと思うんですね。普通に、アメリカでもヨーロッパでも強い風が吹くし、当然それで木が飛んだり倒れたりはします。なので、その点では同じ課題をもっています。根本的に日本とは違うというところはやはり地震だと思うんですね。
では日本の公園のすごく重要な役割は何なのか。地震のときこそ安全な場所として、避難所として、公園の果たす機能は大きいのではないか。ヨーロッパの公園になくて日本の公園にあるのは水です。ヨーロッパの公園はほとんど水を飲めるところがありませんが、日本は小さい公園でも大体水は出ます。つまり、命を救う場所なんですね。それをたくさん作れば作るほど、大きくすればするほど、やはり避難所としての機能を果たすのではないかと思います。
先ほどスポンジシティの話がありましたが、これからどんどんどんどん気候変動の影響で、ゲリラ豪雨などが強くなるので、やはりそこはまた緑地などが重要な機能を果たします。日本の災害は違うので同じことはできないというより、むしろ日本の災害を考えると、より緑地は増やすべきなのではないかというのが個人的な意見です。
吉永 ありがとうございました。次は穂鷹さんについての質問です。「スクラップアンドビルドしない再開発の中で、クリエイティブクラスの人たちが主要なアクターだと考えます。クリエイティブクラスの方々が主要なアクターになると、通常はジェントリフィケーションのきっかけ、あるいはジェントリフィケーションの加速になると思うのですが、この点はどうお考えですか」という質問ですが、いかがでしょうか。
穂鷹 とても素晴らしい質問をありがとうございます。私もこの点が気になっていて、いつも複雑な気持ちで、どんな解決法があるのかを街づくりをがんばっているいろいろな方に投げかけていたりします。私としては、現状では、2つの方向に期待をもっています。
1つは、それでもいいものは都市に作られていくべきなので、世界中でいいものをさらに普及させていくという方向。そうしていくうちに、時間とお金はかかりますが、今、特別高価で魅力的にみえるものが次第に普通のグリーンインフラのようなものになっていけば、ジェントリフィケーションという言葉につながるような現象も相対的に減っていくのではないかと思います。
もう1つは、クリエイティブな人が入ってくると、魅力的になってジェントリフィケーションが起こるほど非常に良い環境になるということが世界中で起きているので、むしろ積極的に都市の行政とタッグを組んで、クリエイティブな人たちにどんどん、さびれたエリアや問題のあるエリアに入っていってもらうという方向。そういう方に最大限活躍していただくことで、問題のあるエリアがピンポイントで、魅力的、ジェントリフィケーションの対象になるほど魅力的になることができたとしたら、ジェントリフィケーションの弊害があっても、総合的にみて、地域住民に還元されるものが多いのではと期待します。
今回私が紹介したこのテンポラリーユースはヨーロッパでもまだ非常に少ない例だと思います。オーナーにしてみるとリスクが大きいという認識がまだまだ強いためです。ただ、実際にやってみると、初期投資やリスクが最小限でその地域を活性化できる。社会実験しながら進めていける。
また、ヨーロッパでは移民出身の方がとても多いで移民の方がいるところのほうが多様性の活気があって、むしろ魅力のある場所になっているところも出てきています。今までの既成概念を取り払って、もっと新しい手法を使ってジェントリフィケーションという非常に深刻な、しかし希望も見えるこの問題に対処していけるといいのかもしれないなと思います。もし何か違うアイディアがあったら私もぜひ伺いたいです。
吉永 他の質問の中に、「ジェントリフィケーションには良い側面もあるのではないか」という問いかけがありましたが、それに対する1つの答えともいえますかね。
太田 ジェントリフィケーションは、地域の再生や犯罪率の低下といったポジティブな影響をもたらすこともありますが、 既存のコミュニティの立ち退きとか家賃の高騰など、そういうネガティブな影響をどうやって回避するのかということを考えるための概念 です。ネガティブな影響を軽減するためには、事前の計画段階でいろんな人を呼ぶことが重要で、これはすごくコストもかかるし、時間もかかるんですが、それ以外ないんですよね。これについては、 第4章のアトランタのベルトラインの話にも書きましたので、もしよろしければぜひそちらの方をお読みください。
都市緑地への愛着をどう育んでいけばよいのか
吉永 次の質問ですが、「生物多様性条約のノルマを達成するために都市に国立公園特別地区を設置するのはどうか、その素案に問題があれば教えてください」という質問がきています。これはこの方のアイデアですかね。今すでに「自然共生サイト」というものがあります。国立公園以外の地域も保護地域としてカウントするというものですよね。それとは別のことなのか。文字通り読みますが、「都市に国立公園特別地区を設置すると、この素案に問題があれば教えてください」ということなのですが。
ルプレヒト どちらかといえば次の質問と深く関連するのではないかと思うので、一緒に考えていけたらと思います。
吉永 そうですね。次の質問を読み上げます。「都市の緑地保全を個々人が自分ごとにするには何が必要になるのか。里山であれば個人の実生活の結びつきから保全意識、愛着が醸成されやすいですが、しかし職場と自宅を行き来する普段の都市的生活において、保全意識ないし愛着を感じていくのは難しいとを考えると、普段の都市的な生活と都市緑地はどういうふうに結びつけることができるんでしょうか」。これも大きな問題ですね。
ルプレヒト なぜ私はその2つの質問が関連すると考えるかというと、どちらも都市の緑をどういうものにするかということだと思うからです。そしてその方向性には2つあって、1つは、ある意味で特別な空間にするか、もう1つは日常生活の一部にするかということだと思うんですね。
私の研究では、後者のほう、つまり日常の一部にしなければいけないのではないかと思うところがすごくあります。質問にあったとおり、緑はただそこにあるものとしても、もちろん価値はあります。ただその価値がその空間を使っている人、そこに暮らしてる人に見えていなければ、あるいは感じられていなければ、十分に評価されずに、もしかしたら緑を守ることはできないかもしれません。そして、この問題はじつはよく考えると、他のより深い社会課題につながっていることがわかります。
この夏もまた家族に会いにドイツに行ってきたんですが、そこで気づいたのは、夏のドイツでは、人が公園など都市の緑のなかによく行ってゴロゴロしています。友だちと話したりはしますが、基本的に何かをするというわけではない。ただその場所にいるだけ。もし日本で同じことをやろうとすると、都市の中だとあまりそういう空間がありません。友だちと会おうと思えば、カフェなど消費しなければいけない空間を利用するしかなくなってしまいます。つまり、常に、目的のある行動になってしまう。
また、日常的に、例えば庭の世話をすると時間が非常に重要になってきます。いま日本の住宅地を見ると、40~50年前に作られた家には小さいけれどそれなりに庭があったりするのですが、いま新しく作られている家には、庭がなかったり、オリーブの木1本だけだったりしますよね。なぜそういうふうになるかというと、庭の世話をする時間が、若い人にはあまりないと感じているからなんですね。緑と繋がる、緑の世話する、緑を気にするための時間的余裕がなければ、おそらく緑への愛着ができないのではないかなと思います。
つまり、緑を探っていくと、他の社会課題が見えてくるのです。第6章で少し書いていますが、ある意味本当に持続可能な社会を実現するためには、都市そのものもそうなんですが、私達の生活様式も変えなければ、おそらくできないのではないかなと思います。
ではどうしたらいいのかというと、日常に緑、または食のある暮らしが都市の中でもできたら、いろんな形でストレス解消やより健康的な食生活などにもつながるのではないかと思います。例えばエディブルランドスケープ、つまり食べられる都市の風景をいかにつくるか。自分のローカルのところで果樹を育て、それを近所の人たちと一緒に収穫して一緒にジャムを作ったりするような新しいコミュニティ作りも必要になるのではないか。そういう近所の人たちとのつながりは今は消えつつありますが、緑がそういう場になるのではないか。そういう形で実生活の中に緑地を結びつけれるのではないかなと思います。
そういう意味では、質問にあったような特別な、例えば国立公園的な空間にした場合に同じ効果は期待できないのではないかなと少し考えますが、またそれは別の機能を果たすために必要かもしれません。
吉永 どうもありがとうございました。国立公園についての補足のコメントが来ています。「先ほどの発言は都市に国立公園特別地区を作るという案です。日本の国立公園特別地区は現在都市にはありません」とのことです。私は不勉強でよくわからないのですが、世界的にはOECMというしくみがあり、自然共生サイトを環境省がやっているのはこの流れだと思います。太田さんはどうですか。
太田 すいません、わかる範囲でという話になってしまいますが、どこの都市のどんな自然を守るかにすごく依存すると思います。基本的に守るべき対象がないところに国立公園の特別保護地区は作られないので、たとえばユネスコパークに指定したいくらいの何かがあるなど指定するに足るようなものがあるかないかが、最初のわかれ道になるのではないかと思いますが、それを満たすとして明治神宮はどうなのでしょうね。個人的には難しいのではと思います。 都市の場合、土地の利用の競合が当然あるわけで、コアゾーンだけでなくバッファーゾーンも含めて設定しようとすると、 かなり難しいんじゃないかと思います。まさに調整の部分ですね。
ただし、実際に国立公園にならないにしても、「いま審議中なので手を出さないで欲しい」という言い方で(搦め手で)開発案の見直しを求めることはできるとは思います。 例えば、「アマミノクロウサギ訴訟」は良い例と思います。
1990年代、奄美大島では観光開発のためにゴルフ場の建設が進められていました。これによる森林の減少や希少動植物の絶滅を防ぐために、自然保護団体がアマミノクロウサギやオオトラツグミなど、動物を原告として、ゴルフ場開発許可の取り消しを鹿児島県に求めました。最終的に、裁判所は、動物は民事訴訟の原告にはなれないという立場を取り、訴えを却下したのですが、裁判と報道を通じてこの案件は世間の注目を集め、バブル後の不景気も相まって、結果的にゴルフ場建設は中止となりました。
なので、いま、係争中なのでちょっと待ってくださいと言い続けることによって、タイムアップを図るというみたいなこともできなくはないんじゃないかなとは思います。
吉永 神宮外苑でいうと名勝に指定すべきだという提案もあるし、そもそも風致地区がありますよね。その風致地区なのに規制緩和で建物を建てるというようなことが1つ大きな問題として提起されているので、すでに国立公園ではない形でも規制をするような仕組み、公園や風致地区という仕組みがあるにもかかわらず、それが掘り崩されているところが大きな問題だし、国立公園にもホテルを建てるという提案があるくらいですからね。実際に規制をすでにされているところが規制緩和でやられているということが大きな問題ですよね。
太田 まさにそうですね。
穂鷹 さきほどの質問、どうすれば都市の緑地保全を自分ごとにできるかという質問に戻ってもいいでしょうか。ルプレヒトさんが上手に全部言ってくださったので、ほとんど重複してしまうんですけども。とてもそれは大事な問題だと思っています。自分ごとにするというのは主観的であるということで、理性でわかっているだけでなく、問題が自分の目の高さまで降りてきて、はじめて自分のこととして動けるのだと思います。ただ、すぐにそんなふうにはならないので、やはり段階というのが重要ではないかなというふうに思っています。
最初は、目につくなにかだったり、それを見てちょっと興味を持つことだったり。それをしているうちに愛着がだんだんわいてくる。そういう段階段階を追っていくことが大事ではないかと。ルプレヒトさんが言ったように身近にあって、いろんな人にとって忙しい生活の動線上で、目に自然に入ってくる、そういう強目的的ではなく、弱目的的なアプローチが、少なくとも自分ごとにするには、重要なアプローチじゃないかなと思いました。
適切な樹木管理の重要性
吉永 事前質問で何人かの方からいただいたのですが、日野市の倒木でお亡くなりになったという事件がありましたが、それについてどうお考えですか、ということですね。つまり伐採がいけないということであれば、ああいう事故が起こるのはどう防げばいいのかということだと思います。
太田 当然ですが、樹木は適切に伐採した方がいいです。 問題は適切な管理ができてないという点で、強剪定も適切な管理ができていないからだし、生え放題にするというのも適切な管理ができていないということです。
ランドスケープデザイナーの方や、 樹木医の方 ――別のご質問で植木屋さんはこれからどうなっていくのかというご質問もあったと記憶しているんですが、もちろん植木屋さんも含めて――樹木に詳しい方と行政がきちんとつながりを持つことが重要ですし、行政の中に樹木に詳しい方がいればベストだと思います。
でも、 樹木に詳しい方が突然増えることは、期待はしたいんですけれども、なかなかそれは現実的ではないので、行政が緑化に詳しい方との接点を持てるようにするというのが非常に重要だと思います。弘前では、弘前城の桜を保護するために、現地の植木屋さんとのネットワークが密に図られてるという話を聞きました。吉永さんが7章で書いた仙台の話も多分そうだと思うんですが、ちょっとその話をお願いしてもいいですか。
吉永 第7章は、仙台市の樹木管理に携わっている人たちへのインタビューに基づいています。仙台市は信じられないくらいの巨大な木が、町中にあるんですね。しかも丁寧に管理されていて、国交省による管理地域と比較すると、その管理の違いが歴然としています。そういう管理が可能になっている理由として、市役所の人の意識が高いことが挙げられます。街路樹の管理の仕方を、業者もちゃんと勉強をしていますし、市役所の人と業者が一緒に講習会を開いている。つまりみんなプロの意識を持ってやるわけですよ。
そんなことは当たり前と思われるかもしれませんが、現在あちこちで行われているのは、ビル管理会社の人に樹木の管理を丸投げする方法だと聞きました。安いからですね。樹木の管理の仕方を知らない素人が強剪定をやってるような事例もあるようです。仙台市の役所の方が「強剪定は良くない」とおっしゃっていました。また、「仙台の樹木はヒートアイランド対策になっていますか」と聞いたら、「なっている」というんですね。実際涼しかったですし。そのように日本の中にもいい管理の例があって剪定するかしないかではなくて、良い管理の仕方、良い剪定の仕方があれば、それを継承していくということが非常に大事だと思います。
どんな都市をつくりたいかから始まる
吉永 これで各論的な質問にほぼお答えしたと思います。残るは総論的な質問で、「都市環境とか都市政策の基本理念」や「未来の都市像」についてですね。
太田 都市の理念についてですが、レジリエンスは都市開発においては 非常に重要なものとなっています 。 気候変動による異常気象や、自然災害(洪水、ハリケーン、地震など)の影響を最小限に抑え、迅速に回復できる能力が求められていますし、多様な文化的背景や経済的状況を持つ人々が集まる都市において、社会的なつながりやコミュニティの強化が重要です。レジリエンスの向上という大枠のなかで 緑地を考え、 緑地を守るときにもその方向で訴えかけたり 、あるいは仲間を作っていくといいんじゃないかと 思います。そして、未来に関する都市像についてはルプレヒトさんに投げていいですか。
ルプレヒト 先ほど少し話しましたが、結局、私たちが都市は何なんだろうと考えるところが鍵なのではないかと思うんですね。私たちにとって都市は例えば働きに行く場と思えば、そのようなものを作ってしまう。一方で最近は持続可能な都市ということがテーマになったりしていますが、少し言い方を変えると、現在、都市はそのまわりの環境からだけでなく、地球全体から人と資源を集めて、場合によっては搾取的に集めて、豊かな場所を作っているといえるわけです。そもそも、地理学ではすごく古い課題なんですが、地方と都市の関係は対等な関係なのかといった問題があるんですが、そういう話になるわけなんですね。
それを改善するために、都市のまわりの地域に対して、良き隣人、グッドネイバーとなるような都市とはどういうものか、まわりの生態系にプラスに貢献するような都市とはどういうところかを考える必要がある。そういう都市計画では視野に入らないような問いを一番先にもってくるべきではないでしょうか。私は、少しでもそういう議論に貢献したくて、サイエンスフィクションの作家と手を組んで――研究者は必ずしも想像力が高いわけではないので――人だけではなく、マルチスピーシーズ、つまり他の生き物のための都市とはどういうものかを想像したストーリーを集めたアンソロジーの本を出版しました。そのような動きは今世界中に広がりつつあるのではないかなと思います。
ですからまずは私たちの中で、都市全体だと少し難しいかもしれませんが、自分のよく知ってる近所をどんなふうに新しく創造できるか、というところから入ってみる。想像力も他の筋肉と同じく、使えば使うほど強くなるので、もう少し勇気を出してもう少し極端に、もう少しラディカルなものを想像してみるという方法もあるのではないかと思います。自分なりに想像できたかもしれないと思ったら、次は他の人に理想の都市についてのイメージを聴いてみる。その次はローカルのワークショップなどの場で行政の人と話してみる。そしてゴールを少し高く設定して、こういうものをやろうと思えば作れるのではないかと提案してみる。
さいわいインターネットを通じて世界の情報を得ることができるし、交流もできますから、都市づくりの様々な事例を知ることができます。こんなすごいものあったらいいなと思うと、探してみるとだいたいどこかで誰かが試したりしています。日本では前例があるかどうかがすごく重要ですが、だいたいどこかに前例はあるのです。それを使ってローカルのニーズに合わせて、勇気を持って想像してみないか、作ってみないかというところに持っていけたらいいんじゃないかなと思っています。
吉永 先ほどの話に関して、「仙台市の周辺では強剪定しているところもある」というコメントをいただきました。これについては、私も市役所の方から同じことを聞きました。そこから、私が紹介した仙台の事例はいいところだけ切り取ってるのではいかと思われるかもしれません。けれども、比べてみてください。仙台市と他の町を比べると、仙台はずっとよくやっていると思われるはずです。
ルプレヒト それについて少しだけいいですか。強剪定については行政だけではなく、じつは大学などで同じ問題があります。結局何が問題かというと、お金です。なぜ強剪定を行っているかというと、3~4年に1回伐ればいいからと。つまり、節約になるわけなんですね。例えばパリは、市役所で緑の管理を行っているスタッフを、本当にたくさん雇っています。それをするのが当然のことだと思っているし、外注しないでやっている。結局、どれぐらいの優先順位をつけるかということです。日本の剪定技術はどちらかといえば高いと思うんですが、業者から見ると、それを使わせてくれない。その技術に対してお金を出してくれないというのがネックなのではないかと思います。
吉永 結局、強剪定は「コストカット」のためにやっているということなのですね。すでに時間を超過してますので、今日はここで終わりにさせていただきます。どうもありがとうございました。
『都市の緑は誰のものか――人文学から再開発を問う』
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