勉強しなさいって言わなくても勉強する子にどうやって育てたの?(3)
●子どもの人格形成
私は子どものころの記憶がかなり鮮明にあります。3歳以降くらいの些細な出来事で、はっきりと覚えていることがたくさんあります。
それらを振り返って思うのは「3歳の私の中には、すでに今の私と同じ人格が形成されていた」ということです。周りの大人が話していることは「まだ知らない言葉」が時々その中に混じっていることがあったにせよ、普通に理解できていたし、「まだ知らない言葉」の意味をのちに知って、過去の話の意味を完全に理解したこともありました。
3歳の私は「大人って、子どもは何もわからないと思っているのね。」と思うことが度々ありました。
また「大人って、子どもはすぐに何でも忘れると思っているんじゃないの?」と思うこともありました。
子どもは大人の話をちゃんと理解できるくらいに人格が形成された存在です。子どもだからといって何でもすぐに忘れたりはしません。大人の話すことに対して、言葉ではうまく説明できないけれど、反論する気持ちを心の中に持っていることもあります。子どもには子どもの言い分があって、それをちゃんと聞いてほしいと思っています。何か思うことがあっても、大人の意見と違うから反論されるだけだと思って、口に出さずに黙っていることもあります。
子どもが口に出していること、今、目の前に見えていることだけが、子どものすべてではないかもしれません。
子どもには「お手伝いがしたい時期」があります。お母さんごっこの延長です。ご飯を作ったり洗い物をしたり、お母さんの真似をしたい時期です。2~3歳の頃、この時期がくるのではないでしょうか。
私も3歳くらいのある日の夕食後、「今日は洗い物全部してあげる。お母さんはテレビ見ていてね。」と、流しの前に椅子を持って行って、椅子に上がって洗い物をしました。上機嫌で洗い物をして満足していたのですが、それからしばらくして、母親が食器を洗いなおしているのを見てしまいました。
あまりのショックに、私は見てはいけないものを見たような気がして、そのことには気づかないふりをして、母親にも一言も言いませんでした。せっかくお手伝いをしてあげたことを否定されたような気持ちになって、ただ、心の中で「二度と洗い物はしない。二度とお手伝いはしてあげない。」と固く誓いました。
以後、私は徹底してお手伝いをしない娘であり続けました。母は私がお手伝いをしないことに対して何も言ったことはありませんが、時々、父親が「少しはお母さんの手伝いしろよ。」と言っても、あの日の出来事と私の決心を語ることはせず、ただ黙っていました。
私が母に初めてこの話をしたのは、自分が娘を産んだあとです。二十数年間黙っていたことになります。これは私がかなりの頑固者だったせいで、どんな子どもでも同じだとは言いませんが、このくらい子どもはいろいろなことを考えているということです。
今思うと、3歳の子どもに洗い物をさせてくれた母親はすごいなぁと思います。私なら食器を割られるのが嫌で、洗いなおす云々以前に、なんだかんだと理由をつけて子ども一人で洗い物などさせなかったでしょう。それに、今さらなのですが、洗いなおしていたのかどうかも若干の疑問があります。私は食器だけしか洗っていないと思うので、もしかしたら母親は私が食器を洗った後に、食器以外の鍋などを洗っていたのではないか、今はそう思ったりもします。
しかし、もし単なる誤解で子どものやる気を削いでしまったのだとしたら、それはそれで怖い話です。もし母親が「ありがとう、お鍋は重くて大きいからお母さんが洗うね。」と声をかけてくれていたら、私はお手伝い好きな少女時代を過ごしたのかもしれません。
親の言動は子どもに多大な影響を与えます。そのことを親も周りの大人も、しっかりと自覚しなければなりません。子どもと接するときに「子どもだから何も考えていないだろう」というような安易な考えで軽はずみな言動をしないで、人格ある一人の人間として子どもと接することが大切だと私は思っています。
実際の子育ての中で、自分がそれほど立派な子育てができたかどうかは甚だ疑問ですし、娘や息子からしたら「どこが?」と思われるのかもしれませんが、この思いは一貫して私の子育ての基本にありました。
(次回は「●子どもの果てしない興味」)
勉強しなさいって言わなくても勉強する子にどうやって育てたの?(1)