「当たり前」が崩れ落ちるときはチャンスでもある
暇だから文章を書く
学校から帰ったらニューヨークのビルに飛行機が突っ込んだ
中学2年の秋、まだ残暑が厳しい日だったと思う。いつものように部活の練習を終えた後、クタクタになった身体でシャワーと夕飯を済ませ、寝ようと思って自室のある2階に上がろうとした。やけに家族の声が騒がしいなと思い居間に向かうと1階のテレビからNHKの緊急速報が流れアナウンサーが忙しなく現地の状況を伝えていた。
「何かあったの?」僕が訊くと、いつも堅苦しい僕の嫌いな父親の顔が更に恐い顔になって「ニューヨークのビルに飛行機が突っ込んだらしい。多分これはこれから戦争になるぞ」
当時の僕はというと「戦争」というものは祖父母がしていた昔話のなかでしか存在し得ない出来事。そう捉えていた。
時折テレビの中から「ドーン、ドーン」という鈍く大きい音が聞こえた。
当時中学生の無邪気で純粋な少年だった僕は、それがビルから身を投げた人間が地面に衝突したときに発せられた音だとは思いもしなかったし、これから世の中がどうなるかなんて事より今テレビのニュース番組が伝えている情報を目に焼き付けることが精一杯で「せっかく寝ようとしたのに眠気も覚めてきちゃったな…」とか、呑気にそのようなことを考えていた記憶がある。
それから後、はっきりと覚えていることが2つある。
2機目の飛行機が隣の高層ビルに突入して爆発炎上した映像をテレビの生放送で見たということと、やがてその2つのビルが倒壊したということ。
ニュースで衝撃的な光景を目の当たりにした僕は悪い意味で興奮しきっていて、とても眠れそうになかったが既に日付も変わっていて平日だったので無理矢理、自室で眠ることにした。
それから直ぐ、アメリカはアルカイダへの報復のためアフガニスタンに兵士を送り込んで戦争が始まった。
その出来事の後くらいから思うようになったのかもしれない。
あの超高層ビルの倒壊、それから始まった戦争のように、当たり前のように聳えているものもある日突然、跡形もなく崩れ落ちる…
祖父の死
間も無くそれは僕の近くでも現実になった。ある日部活の練習中、担任が「〇〇、ちょっと話いいか?」と真面目な顔で「急な話だが、お前のお祖父さんが亡くなった」
あれ?おかしいぞ??
じいちゃんは最近会ったけどピンピンしてたはず…。
祖父の葬式のあとで聞いた話だが、新しく改装した車庫の中で車のエンジンをかけたまま寝てしまい、一酸化炭素中毒だった…死に顔は穏やかだった…と。
「当たり前のように聳えているもの」と言ったが、それは僕が自分の中で勝手に高層ビルを造り、「このビルは頑丈に出来ているし崩れ落ちることなどないだろう」とどこかで勝手に思っていたんだなと、大好きだった祖父の死に直面して感じるようになった。
価値観が大きく変わる出来事はチャンスでもある
あれから長い年月が過ぎたとはいえ、僕はまだ30と数年しか生きていないが、それでも何度も自分の中の「当然」が崩れ落ちる場面を目の当たりにしてきた。
最近になって、こう感じるようになった。
「当然」が崩れ落ちるときは自分の持つ価値観が大きく変わるタイミングでもあるのではないかと。
とても恐ろしいことではある。しかし今の僕は、人生に何度かある自分がひとつ成長できる好機なのかなと思うようにしている。