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(翻訳)バーンゼン『世界法則としての悲劇的なもの』(7):第一章「悲劇的なもの」第五節

第一章 悲劇的なもの

第五節 急展回と破局

 悲劇的なものが、その実現の主観的側面と客観的側面との間で経験する平衡に応じて、諸要素の接触によってある放出が行われ、すなわち極の反転と言われ得る事態が発生する一定の点が、理論的方面から確認されてきた。
 表現上の便宜から、悲劇的なものに関する語彙において、これまでの言語使用において意味が固定されていなかった同義語を区別して使用し、急転回(Peripetie)を内的な転換、破局(Katastrophe)を外的な転換と捉えることとしよう。両者は、それぞれに対応する危機の「結果」として存在するのであるが、我々がこれまでに内部において生起する危機の進行について描写してきたことに関して、その進行に客観的な変化がどれだけ伴うものであるかという問いから逃れることはできない。その変化とは、実在的弁証法による意志の形而上学によって確認された、性格の核の不変性に関係するであろう事情である。
 (我々の理解において)純粋に外的に生起する破局は物の本質を変化させないということは、誰もが認めることである。しかし、自身について驚愕している英雄は、自分が別人となってしまったと思い込み、自己を認識できず、他者よりも自身において惑乱してしまう。そのような心的認識に関してガイベル(訳者注:エマヌエル・ガイベル(1815-1884))は、過去を振り返りつつ自省する女性に、普遍的に使い得る嘆きの言葉を話させている:

憎しみと愛において、自分にのみおいてある者はいない。
我々が呼吸する霧の旋転において魔力がただよっている。
永遠に変わらない息吹にかすかに取り巻かれつつ、
胸中において心が我々を変えてしまう。

 それに対応する、『ヴァレンシュタイン』におけるより短い語句:

彼は、最高のものからも、最卑のものからも離れることを学ぶ。
時の威力が彼を打ち負かすから。

 我々のこの考察において縺れ合っている糸は、先行する節において別途に考察した二つの圏から集まっているものである。ここで威力として現れる時間(Zeit)は、客観的に倫理的なものにおける人倫的期限として、気づかれぬ内に習慣となって、行動する主体を支配している。
 正義、確信、憤慨は時代の子である。そして、正当な子は母に従う。その懐から生まれ、子は母の腕の中で眠り込んでおり、ただ聞かん坊のみが子守歌によるなだめを叫びつつ逃れるが、彼もまた、憔悴して沈黙してしまう。それが正常な状態であるとも言えるだろう。なぜなら、いかなる契約もその条件より、いかなる忠義もその対象より長く持続することはないからである。永遠の原母(Urmutter)には、無条件に不変である諸理念が所属している。個々の生物と、それら個別者に関係する全てのものは、時間において没落している。しかし、死すべき者が自己を、内奥においては不滅のものとして感じることがなく、人類という庭に咲くか弱い花が、現象的消滅が威力を及ぼさない何物かを可視化しているとの印象を与えないならば、悲劇は存在しないだろう。超時間的に真なる無限性のただ中における、時間的な有限性の仮象という、形而上学的な矛盾の最も単純な形式は、美学者の一部が悲劇的なものの最も基礎的な形式と見なしたものである。しかし、実在的弁証法はそれを捨象しても差し支えないと考える。なぜなら、ここではまだ本質的二律背反ではなく、現象形式の対照が問題となっているからである。
 「生まれたこと」の「罪深さ」が、我々の倫理的形而上学の概念群の外部に配されるように、美的なものの単純な死のための挽歌は、悲劇的なものの世界法則からの何らの規定をも表現していない。例え、実在的弁証法が、他の方法によって、その根本法則へと死を包摂せざるを得ないとしてもである。
 「ただ生者のみが正しい」という言葉には、生者は正義の呪縛と、その変転の動揺においてあるという補足が必要である。生きて呼吸する者は時々刻々の空気を吸い込んでおり、その空気は、風化してしまった些事と、腐敗しつつある日々の希望と、破砕された願望と、抹消された要求と、吹き飛ばされた気晴らしと、互いに軋轢する義務と、新たに結ばれた避けがたい関係と、生の欲望と、破滅的な障害と、神経を蝕む中断という無数の原子と胞子をはらんでいる。
 一つの義務を持つ者は、千もの義務に縛られ、際限なく絡み合った網の目の結節点に捕らえられており、抜け出すことができない。最も新たな愛は、それが唯一のものとなったと思われ、そう希望されたとしても、心が他の情動に対して閉ざされることを妨害する。そのため、暗黙のうちに、全世界に向けて再び門戸が開かれている。世界において「ある何かを求める」者は、多くのものを求めている。一つのものに気を配る者は、それによって無数のものに気を配っている。
 極めて勇敢な者が、「事実の威力」の前に退き、極めて動顛した心が、ついには困憊して習慣という安らぎの枕に頭を置くのを見る(慣れたものの威力!)。また、極めて粘り強い英雄がついには事物の新たな「秩序」と和平をなすのを見る。また、極めて感情を害された者は、忠実に建設に助力した基礎が揺るがされているため、造作を続けることができないことにうんざりするのだが、誰でも、自分が多数のなかの一人であり、世界は自分なしでも進行を続けることを思いつつ、妥協しているのである。性格学は、純粋な我意の賞賛者となってはおらず、性格的英雄(Charakterheld)は、単なる頑固の結果を誇ることはしない。
 しかし、苦痛なしに事が運ぶのならば、悲劇は存在しない。忠義のために自己を放棄するしかない場合、困窮した者は、自己嫌悪への強要に対して憤慨し得る。しかし、それによって彼には二つの選択肢がある。深淵へと前進を続け、死において、義務の紐帯を解くのではなく、引き裂くか、あるいは、限りなく縺れ合った紛糾の中をもがき進み、膚を破り骨を折って、別の出口へとたどり着くかである。
 あらゆる「進歩」は正義の瓦礫を進んで行く。無感情の者のみが、自分の正義との和解のない矛盾に陥ることから守られている。安逸な俗物のみが、悲劇の冷血な見物者となり得る。彼は、「そのような紛糾からは離れているし、節度ある心がそのような高みを目指さないので、縺れた糸が首を絞めるのを恐れることはない」と言うことができる。
 しかし、気づかぬ内に、彼も板挟みの状況(それが市民的な無味乾燥なものだとしても)に陥ってしまう。そこでは、主人物としての、あるいは国家的な行動といった道具立てもなしに、父親であることか、それとも愛国者であることを否定するか、市民としての死か、それとも肉体的な死を選ぶか、といった問いに迫られることとなる。
 些事と狭量さは、それを糸巻に巻き付けた者にとってのみ人生の糸の基となるが、クロト、ラケシスの姉妹は、その糸をアトロポスに委ねるまでは糸から手を引くことはない。
 何らかの悲劇的なことが進行するとき、疑惑の苦悩と自己分裂の責め苦が伴っている。その自己分裂において、半分がもう半分に対立しているため、自分を、自己自身のために放棄することが強要されている。
 そのような瞬間に人生が失う価値は、自己感情が失う尊厳に等しい。「耐えるか、避けよ!」(aut sustine, aut abstine!)と、永遠の無関心において分裂した要求が行われている。他方で、内的に和解された統一性に向けた衝動は、「得よ!」(obtine!)と叫ぶだろう。
 苦痛から、何が「膨張したもの」(distentus)として最終的に出来するだろうか。それは、誰もが意欲の要求に従って終生そうあろうと無益に努力する、「実質」(contentus)の反対である。
 世界という名前の下、同質の存在が渦巻いているが、それと同様にばらばらで内的に引き裂かれ、悲劇的に窮迫した者は瞬時の間に実在的弁証法の、逃れ難い生の苦悩を体験する。
 恐るべき瞬間において詩人が凝縮するものを、より恐ろしい現実は無限の時間へと拡張する。度々、新たな出来事が起こり、内的、外的状況に関する明白性をもって意欲の決定を濁らせ、行動を麻痺させる時、あらゆる方面において、瞬間的事情が有する一時的なものを心に銘記させるに足ることが生起する時、あらゆるものが忍耐に訴えかけ、「待て!」と呼びかける時、行動を促す兆候と見られたものが、使命を受けた者が予示された道へと歩みを始めた瞬間に砂中へと消えてしまった時、そのように、早くもあれ遅くもあれ、交互に現れる出来事が確固とした選択肢を目指していないように見える時、対象の悲劇的本性への思念において同情が擡げ、高められている。その対象にとっては、救済的な破局が保留されており、急転回となるべきものは、義務の糸が繰り出せずに縺れ、糾髪症となってしまっている。
 千の「もし」(ob)、「あるいは」(oder)が取り囲み、それに対して確たる答えを与える前に、それらが幻灯機(Dissolving Views)のように次々と変化し、単に混乱に陥れるのを楽しむようである時、人生が、目を見張る者に対して新たな謎を据え、明日は昨日よりも賢明とならないために、その謎に対する時宜にかなった解が見いだせない時、「我々の行為と苦しみとは、人生の歩みをただ妨げている」というファウストの嘆きが抗しがたい明白性をもって湧き上がってくる時、人生という書物の新たな頁が開かれ、熟慮する研究者の知識不足がいよいよ深く心に銘記される時、少なくとも悲劇の洗礼を受けた舌だけは、不安定な優柔不断や馬鹿げた計画と評するのをやめて、判断を保留せよ。
 そのような状況は、表現が困難であるために詩的には使い道がないが、形而上学的に見る時は真に悲劇的性格を有しており、急転回と破局の抑制的形式と名付けることができる。
 ここで、美学的に使用可能な悲劇形式のみが問題となるならば、あらゆる悲劇に人格を高める力が備わっている訳ではないと思わせる多くの出来事を度外視せざるを得ないだろう。しかし、反対に、卑しめるもの(das Entadelnde)が本質的に悲劇的な性格であり得る。正義と真実を巡る戦いにおいて、それが生存の汚濁に入り込むために、戦う者が、不当な思考をしない衆目によっても英雄というよりは、狂者として見られてしまう。
 ハルピュイアの爪から宝石を奪うことは、手を汚さずに行うことができない。そして、少なくとも繊細で軽やかな心情が、微妙な地盤に消し難い瘢痕を残すものを、撒布する胃腸の膨満(proluries ventris)から受け取ることがないようあらゆる手段で防ごうとすることで、特異な性質の衝突が発生する。
 高邁な確信を堅持することは最も高貴な性格の装いと見なされるが、このような場合においては、事情の特殊な性質によってほとんど汚点と言えるまで歪められてしまう。なぜなら、ここで支配的である苦悩の形式においては、理想性として現れ、取るに足らないものさえも浄化するものが削ぎ落されているからである。そこで大衆は、自身と類すると思われるもので目を楽しませるために、無骨な拳を振るいつつ、無情な市場に登場するのであるが、その市場は人間皆とその尊厳のために沈黙すべきものであり、一方で最も高貴な動機は、かの市場が容認される間は光を避けて隠遁することを強要されている。そこでは恐らく、最も忠実な人格が誤解に曝されないようにするため、最も神聖な財産の損失に関する苦痛と嘆きが、あたかも不正であるかのように否認され、秘匿される必要があるだろう。そのような英雄は、他者の恥辱を進んで引き受けるのであるが(この思想は、とりわけフライタークが『ヴァレンティーネ』において劇的に形体化したものである)、それは彼が他者の恥辱を誰よりも良く担うことができると考えるからであり、彼はそのために完全に自分の良心に立脚している。
 自分の判断のそのような絶対の孤立においては、自己と、破滅的敗北のみを見せている人倫的諸力の実体性を信じ続けるためには、超人的な強さが必要となる。これは悲劇的な地獄変の極めて特殊な種類であり、そこでは気高く、真理を唱道し続ける必要があるのだが、その唱道は、人間の高さの極みに至らない伏した牛(pronum pecus)にとっては永遠に我意に過ぎず、多少は同情的な性向の者にとってはせいぜい狂信と見なされるものである。
 ここでは、詩人は受難者に勝利の栄誉を与えず、勝利は戦いと同様に内部に留まっており、そこには、引けを取らない真理探究者の欺き難い観察眼のみが到達できるのであるが、彼は、人生の現実が、印象深い姿勢や、劇的効果のある集団ではなく、世界運命の自然的必然性による実現を目指していることを知っている。その実現は、他者の意欲に鞭打たれ、盲目的信念を持ち、鈍った手際で、不当に強制されつつ、無倫理的な不自由の下に粉ひき車のような困難な道を、罪や偉大さ、また知識、不安、また世界の秘密の予感を持たずに歩み続ける耕馬や役牛、車犬(Karrenhund)のような者にのみ委ねられている。
 ここでは生の皮肉が最も鋭い一点に集中している。そのような極めて不当で悲惨な破局は、強力な観念論的本性のみが遭遇し、そのような本性のみが急転回の瀬戸際に置かれることとなるのであるが、そこではあらゆる人倫的関係の極めて卑劣な顛倒という幽霊が、その関係特有の本質性への懐疑とともに、混乱する頭を飛びぬけて行く。
 ここで、生と悟性において助けとなるのは反抗のみであり、取り返しのつかない財産の破壊者への憎悪からくる反抗も含まれる。一方、同じ瞬間に、愛は、最も愛すべき心の殺人者として現れている。

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