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(翻訳)バーンゼン『世界法則としての悲劇的なもの』(6):第一章「悲劇的なもの」第四節

第一章 悲劇的なもの

第四節 純粋に経験的な把捉による人生と芸術における悲劇的なもの

 当面の概括
 他のものよりも深く人間の心自体に触れるものが問題となる時、学派間の争いを遠ざけるのは当然である。古今の大詩人の権威によってさえも、仮象の世界における最も現実的なものを共に指示する概念を確定することにおいて我々が制約されることはなかった。まして、強情な哲学説がかの最も現実的なものの存在の権利を否定しようとしたときも、我々を惑わすことはできなかった。ある絶対的な道徳家にとって、義務の衝突が彼らの体系(訳者注:道徳体系)にとって妨げとなる不快な横鎗に思われたとしても、我々は気に留めなかった。我々は、単に経験と、その経験を素直に受け入れた人々を拠り所とするのみである。全く聖書上の根拠に基づく正統主義が、人倫的分裂を人間が通有する原罪に帰そうとしても、また、厳格なカント主義者が「人倫的判断における不明瞭または不決断が二つの掟の衝突を信じさせるのであり、真実においては全ては定言命法の下にある」と主張したとしても、また、根本において無倫理の自然哲学の唱道者が「悲劇とは過度に繊細な倫理的趣味、いわば『超美学的』(hyperästhetisch)良心の産物にすぎない」と主張したとしても、それらすべての説は事実を何ら変更することはできない。それは、人間関係は、人間の運命にとって最も困難なものが、意識によって時として入り込むことがないほどに素朴あるいは家父長的に思考され得ないという事実である。その証拠は、小児段階に留まる人種による極めて無技巧の民族歌謡や、せいぜいが半文明的な民族の社会生活のあまりに人間的な状況の感動的描写が提供している(※)。なぜなら、抒情詩は歌い始めた瞬間、すでに引き裂かれる苦悩を嘆かなければならないからである。そして、叙事詩人は、悲劇的素材が詩的製作のために提供されるのに先立って、劇作家の登場を待つ必要は決してない。そろそろ、真の悲劇(Tragödien)を単なる悲しみの劇(Trauerspiele)から区別し始めなければならない。悲劇がソフォクレスに見出されることをもって、爾来より狭く確たる境界に押し込まれてきた概念(訳者注:悲劇)を、古代ギリシャにおける単なる歴史的偶然による命名のために、不適切に幾度も拡張し、曖昧な不定なものとすることは不当である。単なる悲しいものに関して、もろい心による同情を捨てることができないだけの者でも啼泣することができる。しかし、それはより高次の種(訳者注:悲劇的なもの)の活動領域を閉ざし、狭めてはならない。なぜなら、真に悲劇的なものは空虚な嘆き以上のものを呼び覚ますからであり、それは悠久の存在の最も秘められた内奥への洞察を開示している。
(※)古代インド人、エジプト人については言うまでもないとして、裏付けが欲しい読者は、ヴェスターマンの月刊誌の1872年12月号所収、ハインリヒ・フォン・マルツァン作「不純な種族」の、悲劇的縺れの豊富さに事欠かないアラビア砂漠の物語を参照されたい。

 真に悲劇的な苦しみにふさわしい者は、太古のスフィンクスの謎とその解決の啓示的唱道者として選ばれている。彼からは賢者の中の最賢者でさえも至賢の知恵を学ぶことができるのであり、碩学の誰でもそのような師の膝下に伏して聴従するためには自分はあまりに賢く、優れていると自惚れることはない。我々の誰もが、時々刻々にあちらこちらで刺激する生存の小矛盾を感じている。しかし、他の者が主観的感覚の形式により体験することを、選ばれた者だけが、手近な客観性により可視化するという使命を受けている。
 単なる悲しいものは事情によっては全く冷たく、「そのようなことは私には起こらない。そのような余裕はない」とあしらわれ、素通りされてしまう。しかし、悲劇的なものを眼前にすると、それを前にすると誰もが安全ではないことを知っている者は皆が戦慄するのであり、極めて固陋な良心の殺人者においても同様である。なぜなら、誰の心においても、悲劇的諸力によって捉えられ得る急所が存在するからである。たった一つの願望を抱く者には、二つ目の願望が接近し得るのであり、悲劇的なものの実現のためにはそれ以上の前提条件は不要である。あらゆる意思の動きには最始の二重性が備わっており、あらゆる欲求は単に直線的なものではなく、あちこちに鈎を伸ばして、それを掴む者を縺れさせ、絡め取ることができる。
 かなりの者が、希望なくして人生を歩んでいると思い込んでいるが、その心の畑には気づかぬうちに悲劇をはらんだ行為の芽が植えつけられている。古代ギリシャ人は、この点において破滅へと最も確実に誘うものは安全であること、慎重さは守りとならず、用心は我々を保護し得ず、賢明さは免除を与えず、知恵は我々を救わないことを認識していると考えていた。
 悲劇的状況は、弱く脆い人の業であると同時に、現前しつつある世界本質の人相学的表現である。その本質に対しては、子供が父親に対するのと同様に、個人は無力で無援であり、泣きながら、生まれ出た懐へと帰って行くのである。
 しかし、この根源こそが、悲劇に高貴さ、崇高の性格を与え、「それが人間を押しつぶす時、それは人間を高めている」と言われるところの荘厳さに包み込むのである。
 聖なるガンジス川の波に向けて響く歌によって生存を嘆く歌人は、それについての予感を持っていた。それはダビデの竪琴から、またヨブの対話から鳴り響いていた。ホメロスの吟遊詩人や、エッダにおけるルーン文字の解読者もそれを知っていた。しかし、数百年をかけて徐々に明るみに出てきたものが、我々の世紀の予見者には白昼のうちに現れていた(※)。暗闇を手探りで進みながら、連綿たる種族は苦難という憂愁の盃を味わった。しかし、不死の眼から帳が下ろされ、発見された謎についての知識が諸国の間に次第に高く鳴り響くまでは、夜に呼びかける何故という問いに対して答えがこだますることはなかった。その知識は、汝の意欲の渦巻く支配において汝自身から悲劇が生じるのだ、地上を離れた神が難題を課し、超世界的悪魔が罠を仕掛けるのではなく、汝自身がそれを行うのだという知識である。しかし、それは血肉からなる個としての自分ではなく、その裏に不滅の枠組みとして、不燃の石綿布としてあるものであり、その布の表面は永遠の変転においてある生と死を交互に映し出している。そのため、悲劇的運命は、我々の最古の祖先にとってそうであったと同様に、曽孫にとってもほとんど避けがたいものである。なぜなら、諸世代間の紛糾によっていよいよ雑然と色が混ざり合い、ますます精緻な織機において糸がいよいよ屈曲して重なり合うからである。そして、人生の撚糸がか細くなりゆくにつれ、不断に習熟する工匠の巧みな技は日々変化に富むものとなっている。
(※)
地の性の闇の底に
暗い盲目の衝動が司る
意志は永遠に衝動に抗する
頭と心において、夜の意志と、光の道、すなわち光の意志が番う
永遠に屈服し、勝利しつつある番いを戦いから、誤謬の重荷から、迷光の誘いから安らわせよ
始光と始夜が結びつき、全有の静寂においてそれらが永遠に救済されるまでは
(ロベルト・ハマーリング「7つの大罪」)

 しかし、我々の考察のこの箇所における経験的性格から離れすぎないよう、形而上学的概観から、悲劇的現実性に関する、単純であるゆえに原像的である諸形式へと戻ろう。
 遠くに向けられた要求の明白な誠実さについて、不動の信頼という忠実な確信をもって、幼い心情は人生に向かって無邪気に「よし!」と手を差し出す。なぜなら、義務を果たす者は罪を犯し得ず、正義の道をそれずに歩む者は決して罰を被ることがないと考えているからである。しかし、近くには交差路があり、正義の教えには欺瞞がある。なぜなら、世界はあらゆる道を進むが、直線路を進むことはないからである。極めて困難な義務を果たしたと考える者が、容易に極めて重い罰を被るのであり、正義の呼びかけに従った者が、すぐに迷妄に陥ってしまう。なぜなら、正義(Recht)は常に正当なもの(das Rechte)ではないのであり、正当なものは常に正義ではないからである。
 突如として道が分岐したのに対して、両足を裂いて進むことができなかった者は、悔恨という内的なものであるにせよ、苦難という外的なものにせよ、罰を招いている。
 二重の義務の半分によっては他の半分を免れられず、ある法を犯すものは、それによって他の法を遵守したのだと弁解することはできない。神の掟と人間の法のみではなく、神の意志と神の要求も互いに争っている。そして、一方に従うことが、他方の尊厳を毀損することとなる。同じ神性が、両立できないことを要求するのであり、リューディガーは、此方と彼方で同時に忠義を果たせないことによって没落してしまう。愛と愛とが、敬虔と敬虔とが、母の正義と父の要求とが争っている。いずれにせよ、罪は犯されねばならない。なぜなら、義務を二つながら果たさないことは二重に責めを負うことであり、ハムレットの無為ではなく、勇敢な決断によってこそ二律背反から逃れることができるからである。悲劇的英雄は行動しなければならない。躊躇は彼を罪人にするのであり、悪行への非難から逃れようとすると、卑怯という呪いと恥辱に陥ってしまう。
 どちらの側においても、悲劇的正義という醜面が彼に笑いかけている。彼がどのように行動しようとも、彼は常に不正なのであり、正義は、どのような道を取ろうと執行されるのである。
 聖なる禁止の軽微な違反か、重度の違反かの選択が与えられることは稀である。大抵は、恐ろしい均衡を保って然りと否とに取り巻かれることになり、選択の苦悩は考え得る限り極度に研ぎ澄まされている。偶然の裁断に委ねると、決断がどちらの側から下ろうとも、不自由の犠牲となる。どのように決断しようとも、行為者として完全に責任を負うが、避けがたい必然性の強制によるという見かけに完全に包まれている。
 利己心の不在も救いとはならない。純粋な自己否定において、倫理学が善と名付ける他者の幸福をのみ追求することができるが、罪からは離れられない。その場合、その者に帰せられるのは、求められた善ではなく、意志の自由なくして、付随的に引き起こされた災いである。ここにおいて、世界の総量における悪の優勢が明らかになるのであり、悲観主義の(経験的ではあるが、)正当性はここに根ざしている。行われた不正に対しては悔悛と償いが無条件に、どこにおいても求められるが、達成された善に対しては、それが差し引きなしに行われ得た場合であっても、根本から悲劇的な性質である世界秩序は報いを求めることはない。
 これが、いわゆる正義にどれだけかかずらったとしても、それを嘲弄の対象とする事情である。高貴な自己韜晦において、大衆の中のグラックス兄弟は悪の情熱を解き放つ。これは彼らの罪であり、また、彼らに似たもの皆の罪である。そこにおいて正義を欲する者は、人倫的なものを数学的冷静さで計算するヘルバルト主義者のもとへと行くがよい。ヘルバルト主義者は、結局は、当初は「明確で疑いなく」始まった人倫的諸理念が、互いに、あるいは現実との間で純粋に割り切れることがないことを結局は認めざるを得ない。そうではなく、それら諸理念はどこにおいても約分不可能な剰余を残すのであるが、それは切り立って突き出す岩稜であり、そこでは悲劇という猛禽の群れが営巣して極悪の雛を育んでいる。
 英雄としての第一の要求は勇ましく飛びつくことだと考える「健全な者」はここにおいてもより安楽である。彼らは、第二の、果たされていない義務などないとする。彼らにとって倫理は、論理的に正しい幾何学のようにどこにおいても直線的で節のないものである。彼らが認めるのは真の二律背反ではなく、せいぜい「論争」である。そして、二律背反が牛のように立ちはだかると、彼らは躊躇なく「角を持って捕まえろ!」と叫ぶ。しかし、彼らがそれをもって成功するかは別問題である。なぜなら、彼らが櫂や舵を壊すことなしにスキュラとカリュブディスの間を通航しようとする特別の水先案内術について、他の人間に白状しようとしないからである。彼らは、より近く重要な義務については、正しく観察すれば疑いの余地はないとして、何を行えばよいのかが常に分かっていると主張する。彼らは、運命に弄ばれる幸福な人形なのであり、彼らには冥府への通行が認められることは決してなかった。そこには「母」が棲まっており、その胸において世界の苦しみが繰り返し成長している。それは、楽観主義の夢遊病者が、分断の険峻な、狭い稜線を目を閉じてたじろぐことなく突き進むとしても変わらない。なぜなら、意志がそう意欲しているからであり、彼らが動揺して躓くことによって、スフィンクス自身が深淵へと落ち込み、それは世界の終局となろうからである。そのため、燃える炭の上の出口なき「円環」において駆り立てられ、悲嘆の踏み車、悲劇の競争路において進み続けよ! 彼らが光を生むことはあっても、救済はない! 彼らの認識は敷き詰められた鉄菱を照らすのみであり、つま先だけでも痛み無く踏める空地が見つかることはない。そして、太陽が消え、最後の恒星が沈み、もはや意欲をやめた意志という究極の一者と一体化するまでは停滞はない。なぜなら、悲劇の「教えは世界とともに永遠である」からである。

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