真理を求める旅
西暦が誕生した頃に真理は説かれていた
世界は幻想なのか。それが本当かどうかを確かめるために、いろいろな実験を超個人的に始めたけれど、幻想だとも、幻想でないとも、「これが真実だ」と証明することは難しいと分かった。ただ、そうした概念を念頭に出会ったことを思い返すと、仏陀が伝えてきていることも、いろんな宗教の高僧の発言も、みな同じことを指し示しているように思えてきた。つまり、【世の中にも事象にも身体にも意味がなくて、幻想であり、その意味のない幻想と理解して、この世を生きる】ということ。もちろん、全ての書物がそれを指し示しているわけではなく、人為的な操作が入ったものも多くあるけれど、悟った仏陀や空海、キリストが同じ内容のことを話しているのはとても興味深いと感じる。
私が学んだ超新しくて、これを人にどう説明したらいいのかと思案していた内容の学びについて、遙かかなた昔に、既に人(しかも複数)が説いたことと同じなのだと気がついた時は、衝撃だった。こんなことに気がつかなかったなんて。今までにないすごい発見だと思って学んだものは、古代人によってとっくに理解されていたものだった。笑える。未来に進んでいると思っていたのに、くるりとまた一周して戻ってきた感じだ。
実感と共にある真実
でも、周りには本当にそれを実行し実現して生きている人はいない。私には僧侶の友人も数人いるし、かなり位の高い僧侶の話も何度か聴きに行ったことはある。彼らはたくさんの修行を積んでいて尊敬に値する素晴らしい人たちだし、もちろん概念は充分理解している。でも本当に世界を幻想と完全に認識して生きているとは残念ながら思えなかった。私が学んでいることとは厳密に何が違うのだろう。まだその答えは出せていない。彼らが伝承を学びながらも、ある意味それを歴史的観点から受け取ったために、逆に真髄を生きようとする時、薄い膜のような壁に突き当たるような、そんなイメージを抱いている。
私はこれからも特定の宗教を信仰するつもりはないし、何かを妄信的に信じて進むのではない方向へ進みたい。それが真実かどうかをいつも実感として確認していたいと渇望する。偉いとされてきた人が伝えたとされたことをただ伝えていくことに興味はない。私は実感のある真理を求めていきたいのだ。「こう伝わっているからこうだ」ではなくて、確かな手応えと、これまでの体験の布石がつながって導き出される答え合わせを手がかりに、本当に真実はあって、それを学んでいくチャンスがあるというなら、それを真摯に求めていきたい。
生き方や方法や心理にヒントはあるが真理ではなかった
本当の真実とは、「こう考えると人生が楽になる」とか「私たちにこんな傾向がある」といったこととは違う。これまで私は、そうした《方法》や《傾向》にご縁があったし、昔はそれが一番真理に近いことだと思えたために、長年いろんな分野や切り口から勉強させてもらい、仕事としても関わらせてもらってきたが、面白いことに今は、それらの重要性が私の中で自然と抜け落ちてしまっている。
もし世界が幻想なら? もし実際には起こっていないことに一喜一憂し、苦しみを感じているとしたら? 時間の概念や存在の概念が崩されたら?
もしそれらが真実なら、今まで学んだ方法や発見された傾向は無意味で、問題自体が成り立ちもしないのだ。成立しないことに悩む必要もないし、私自身が幻想だと気がついていることを、幻想の世界でどうにかしていくなんてもうできない。虚像を追いかけて、深めていくような真似事も、もうできない。なぜなら、いくらそこを解決しようとしても、解決はないと本当に理解できたから。
ただ、「ちなみに」ではあるが、実際のところ、今学んでいることの実践をする時に、これまで学んできた方法が、時に意外と役に立つことことがあるとも実感した。世界が幻想だとか、起こっていないと気がつくとか、赦しだとかいう概念は、思考の立場からいうと、頭のチャンネルを180度切り替えないといけないほどぶっ飛んだ概念で、実際に大きな問題に直面した時、すぐにはそこに移行できない時があるのだ。その切り替えについて来れていない気持ちがある時、なかなかチャンネルを切り替えられない。そういう場合にのみ、これまでのスキルを使って、しばらくの間付き合ってあげる猶予をプレゼントできる。バッサリと切り捨てられないことで、気持ちは一息ついて、それから本来の立ち位置を思い出せる。
必要なものは何でも使えるように用意されている。これまでの人生は下積みだったのかもしれないと思えてきたりする。大いなる存在の計画に無駄はない。
赦しの実践で現実世界は変わる
私が実際にしていることは、心のチャンネルを真実に切り替える訓練だ。その中で、《赦し》は大きな実践となっている。
これまで学んできた考え方や方法で、立ち行かなかったことや繰り返していたことが、《赦す》ことで、一気に大きく変容することを体験をした。自分を責める妄想は消えていき、いつも意識を戻す確かな場所ができたことで、これまでとまた違う、どっしりとした安定感を自分に感じられるようになった。エゴのささやきに翻弄された時、私は自分の居場所を思い出せばよくなったのだ。次第に必要のないことが淘汰され、学びを続けることで、意識が真実から離れることも少なくなった。
私の頭には、この見えている世界が真実ではないという認識が存在してくれるようになった。今、科学において《私たちたちが認識している現実が脳内で描いた幻想だ》という論争もあるが、その幻想を描くのは脳内ですらない。考えてみて。脳や身体が幻想だったら?
私たちは、真実を求め、認識を再構築していかなければならない。
ファンキーな真実を分かち合うこと
今、私はワクワクを続けている。ようやく本当に求めていたことに、タッチできそうな気がするからだ。全てがホログラムなら、私も私の大切なものも消滅するのか? …という漠然とした恐れがあった時期もあったのだが、も今はもうなくなった。というか、もっと安全で安心できる思考へと自然に移っていった。学びは今後も自己学習がメインだが、これまでの全てが役に立っている。
これから、もっともっと、真実に気づくプロセスをたどる人は増えていくのだろう。私がどんな役割を今回することになるのかは分からないけれど、面白がって、この先を楽しみながら行こうと思っている。時にはなかなか赦せないものに出会ったりしながらも、予定されている節目節目をきっと生きていくのだろうと思うのだ。
苦痛に満ちていた頃と違って、実験室に自分がいるという自覚の上で、過去にできなかった選択肢をやり直している。委ねながら行く旅は、案外いいものだ。できれば、たくさんの人と、このとんでもないファンキーな真実を分かち合っていけたらいいなと思う。
《幻想を見ている》という認識で生きている人は、これまでと違う人生が送れるようになる。その認識が私たちの常識になれば、エゴの作り出す世界での苦悩は成立しなくなっていく。
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