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ヒトはなぜ眠れなくなったのか?
現代社会における睡眠不足・不眠の多層的考察
私たちヒトは、およそ3分の1の人生を眠りのうちに過ごすといわれています。
睡眠は身体と脳を休ませる重要な生理現象であり、生命維持に不可欠なものです。
しかし、現代社会では「眠れない」「眠っても疲れが取れない」といった訴えが増え、睡眠問題が深刻化しています。
なぜヒトはこれほどまでに“眠れなく”なってしまったのでしょうか。
本稿では、歴史的背景・社会的要因・科学的知見など多角的な視点から、その要因を探ってみたいと思います。
1. 歴史的背景:睡眠文化の変容
1-1. 人類の睡眠パターンの変化
人類が太古の昔から睡眠にどのような文化・習慣を持っていたかを知ることは、現在の睡眠障害の一端を探るうえで重要です。
農耕社会に移行する以前の狩猟採集時代、睡眠は“日没から夜明けまでの休息”という単純なパターンにとどまらず、動物の襲撃や外的リスクを低減するために小まめに睡眠をとる“分割睡眠”の傾向もありました。
一方、農耕社会の定着によって「日中に働き、夜に眠る」という比較的規則的な昼夜リズムが形成されました。
夜が暗くなれば活動がしづらいという事情もあり、自然と夜間の睡眠が長く保たれる形でした。
このように、長らく人間の睡眠は太陽のリズムと密接に結びついていたのです。
1-2. 人工照明の発達と「夜」の変質
歴史上で睡眠文化が大きく変化した分岐点として、まずは“人工照明の普及”が挙げられます。
19世紀にかけてガス灯、20世紀には電灯が普及することで、夜間でも明るい環境で生活や労働が可能となりました。
夜でも本が読める、仕事ができる、娯楽を楽しめるといった利便性が高まった反面、“夜”という時間そのものの持つ意味合いが変質しました。
歴史学者ロジャー・エカーチ(Roger Ekirch)は著書『At Day's Close: Night in Times Past』(W. W. Norton & Company, 2006) で、
近代以前には夜間の睡眠が2回に分割されていた(ファーストスリープとセカンドスリープ)ことを指摘しており、人工照明の普及が夜のライフスタイルを大きく変えたと論じています。
夜の時間が人間活動に組み込まれることで、睡眠をとるタイミングや質に大きな変容がもたらされたのです。
2. 社会的要因:24時間社会とテクノロジー
2-1. グローバル化と24時間化する社会
現代社会ではグローバル化が進み、各国との時差を越えて取引や交流が生じるため、企業や人々はいつでもどこでも「対応可能」であることが求められる状況が続いています。
深夜でも照明やインターネット環境が整備され、コンビニエンスストアや通販サイトによってサービスが途切れることはほとんどありません。
結果として、従来の「日中に活動し、夜間に眠る」というリズムが乱れやすくなり、人によっては深夜帯まで仕事やコミュニケーションが続くことも珍しくありません。
こうした24時間化・グローバル化が、私たちの睡眠時間や睡眠の質を低下させる要因となっています。
2-2. スマートフォン・インターネットの普及
さらに、スマートフォンやタブレットなどのモバイルデバイスの普及も、夜間の活動を助長している大きな要因です。
就寝前にスマートフォンの画面を見てしまう人は少なくありません。
しかし、ブルーライトを含む強い光刺激は睡眠ホルモンであるメラトニンの分泌を抑制し、眠りのリズムを乱すことが明らかになっています。
(参考:日本睡眠学会『睡眠医学講座』、2019)
また、SNSや動画ストリーミングの存在は、就寝前に“いつでも娯楽・情報”を選択できる環境を生み出しました。
これによって就寝時刻が遅くなりやすくなるだけでなく、脳が覚醒状態に入りやすい心理的影響も無視できません。
3. 生物学的・心理学的な観点
3-1. 概日リズム(サーカディアンリズム)の破綻
ヒトには、概日リズム(サーカディアンリズム)と呼ばれる約24時間周期の生体時計が備わっています。
光刺激が朝に入ることで、脳内の視交叉上核(SCN)が刺激され、体内時計をリセットする働きがあります。
しかし、夜間に強い光を浴びる機会が増えると、この体内時計がうまくリセットされず、体内リズムとのズレが生じてしまいます。
これがいわゆる「時差ぼけ」のような状態を日常的に引き起こし、睡眠の質を下げてしまう要因となります。
3-2. ストレスと不安の高まり
社会・職場・家庭などのストレスが原因で、眠りが妨げられるケースも増えています。ストレス反応によって脳や身体が緊張状態にあると、睡眠に必要なリラックスモードに入りづらくなります。
さらに、睡眠不足そのものがストレス耐性を下げるため、不眠が悪循環を生みやすいのです。
不安障害やうつ病などのメンタルヘルスの問題とも睡眠は密接に関わっています。
多くの研究で、睡眠障害とうつ病・不安障害などの精神疾患は“相互に影響を及ぼす”ことが示されています。
(参考:Walker, M. P. “Why We Sleep.” Scribner, 2017)
4. 現代社会に特有の要因
4-1. 勤務形態・社会構造の変化
シフトワークやリモートワークなど、勤務形態が多様化している現代において、従来の規則的な睡眠リズムを維持することが困難になっている人は少なくありません。
夜勤や交代勤務に従事する労働者は、昼間に眠らねばならない状況が続きます。光や騒音などの環境要因も昼間の睡眠を妨げ、不十分な睡眠を慢性的に抱える人々が増加しています。
また、在宅勤務の増加により、仕事とプライベートの境界が曖昧になることで、夜遅くまで仕事を行い就寝時間が不規則化するケースも増えています。
4-2. 環境要因と睡眠衛生の低下
都市化が進んだ地域では夜でも明るく、騒音も決して少なくはありません。住宅事情によっては静音を保つことが難しく、近隣の生活音に悩まされることもしばしばです。
こうした生活環境の悪化が睡眠衛生を損ない、結果として不眠症や睡眠障害を助長している可能性があります。
5. なぜ「眠れなくなった」問題は深刻か
5-1. 睡眠不足がもたらす影響
慢性的な睡眠不足は、疲労感だけでなく集中力・注意力の低下、記憶力の減退、感情の制御力の低下など多岐にわたる悪影響をもたらします。
さらに、身体面では肥満リスクや生活習慣病(糖尿病・高血圧など)の発症リスクが高まることが明らかになっており、心身の健康を蝕む重大な問題です。
(参考:National Sleep Foundation, “How Sleep Affects Your Immunity,” 2020)
5-2. 社会的コストの増大
経済的側面をみても、不眠や睡眠不足が原因で生じる生産性の低下、医療費の増加、交通事故・労働災害のリスク増大などは社会的コストを押し上げる重大な要因となっています。
ひとりひとりの睡眠問題が、社会全体の効率や安全性にも影響を及ぼしているのです。
6. 改善に向けたヒント
6-1. 光環境のコントロール
人工照明とデジタルデバイスがもたらす過度な光刺激をコントロールすることは、睡眠を守るうえで非常に重要です。
特に就寝前のスマートフォン・PCの使用時間を制限し、照明を暖色系の弱い光に変えるなどの「睡眠衛生」の工夫が必要です。
6-2. 規則正しい生活リズムの確立
起床時刻や就寝時刻を一定に保ち、朝起きたらまず太陽の光を浴びるよう心がけることが、体内時計をリセットするために効果的です。
シフトワークや在宅勤務の場合も、できるだけ“自分なりのルーティン”を作り、睡眠時間を確保する工夫が求められます。
6-3. ストレスマネジメントとメンタルヘルスケア
適度な運動やリラクゼーション法、カウンセリングなどでストレスを軽減し、精神面を整えることは良質な睡眠に不可欠です。
睡眠不足がメンタルヘルスに与える影響、メンタルヘルスが睡眠に与える影響の両面を考慮し、専門家のサポートも必要に応じて検討することが望ましいでしょう。
7. 結論
ヒトが「眠れなくなった」背景には、歴史的・社会的・生物学的要因が複雑に絡み合っています。
太古の昔から夜と昼のリズムに合わせて行われてきた睡眠サイクルが、人工照明の発達や24時間社会、デジタルテクノロジーの普及によって大きく変容したのです。
この変化のスピードは、人類が長い進化の過程で獲得してきた生体リズムの調整速度をはるかに超えています。
また、ストレス社会やメンタルヘルスの問題によって、ヒトの脳と身体はリラックスモードに入りづらくなり、眠りを誘うホルモンの分泌やリズムの確立が妨げられる状況も広がっています。
睡眠不足や不眠は、個人の健康や生活の質だけでなく、社会全体にも重大なコストとリスクをもたらします。
しかし、光環境の調整やストレスマネジメント、睡眠衛生の向上など、個人や社会が取り組める改善策も存在します。
私たちが本来持っている睡眠という“生命に不可欠な営み”を、もう一度見つめ直すことが求められているのです。
参考文献・引用元
日本睡眠学会『睡眠医学講座』 (2019)
Matthew Walker (2017) Why We Sleep. Scribner
Roger Ekirch (2006) At Day’s Close: Night in Times Past. W. W. Norton & Company
National Sleep Foundation (2020) “How Sleep Affects Your Immunity”
National Institute of Health (NIH), “Sleep, Sleep Disorders, and Biological Rhythms”
上記の文献をはじめとする多くの研究が、ヒトの睡眠が置かれている現代的な危機を示しています。
私たちは、睡眠をただの“休息”ではなく、身体・心・社会を支える重要な基盤として再認識し、その質と量を守る努力を続ける必要があるのです。