詩とは何か/第一回:詩の定義の難しさ【えるぶのつぶやき】
現代において、詩を定義することは難しい。
それは現代において芸術を定義するのが難しくなったのと似ている。
私は中学生の頃から詩を書いていた。
はじめは感傷的な文章を適当にぶつ切りにして並べるだけだったが、定型詩やら散文詩やら、色々な文芸作品の形式を知るうちに、自分が書いているのは果たして詩なのか?そもそも詩とは何なのかと悩み始め、以来10年以上考え続けている。
自由詩の出現前であれば、詩の定義は比較的簡単であったように思われる。
漢詩や古典的な西洋の詩の場合は韻律や押韻など厳密な作詩法があり、それに従っていればとりあえずは「詩」ということになった。
唐代の詩人、李白の「静夜思」は五言古詩という形式で書かれ、光、霜、郷が韻を踏んでいる。現代の中国語で聞いても、いずれも第一声の光(guang)、霜(shang)、郷(xiang)が見事に響き合い、とても美しい詩である。
ボードレールの詩、「宝石」はフランス語詩では典型的な詩形、アレクサンドランで書かれ、各詩行が12音節から成る(12音節とは、人間が息継ぎせずに朗読出来る限界の長さだと言う)。
また、目で見ても分かるようにcoeurとvainqueur、sonoresとMoresが交互に韻を踏んでいる。
ロシア語の詩は、アクセントのある音節(強)と、アクセントのない音節(弱)の組み合わせによってリズムを作り、ヤンブ(弱強)、ホレイ(強弱)、ダクティリ(強弱弱)、アンフィブラーフィ(弱強弱)、アナペスト(弱弱強)と5種類のリズムが存在する(これらの名前はギリシア語詩のリズムに由来する)。
上に挙げたロシアの国民的詩人、プーシキンの詩、「私は貴女を愛してた」はヤンブ(弱強)のリズムで書かれ、можетとтревожит、совсемとничемが交互に韻を踏んでいる。
しかし韻律も押韻も必要としない自由詩の出現により、詩の定義は一気に困難なものとなった。
それまで詩文と散文を区別する基準は韻律や押韻しかなかったからである。
詩の定義がないというのは、詩を書いている私にとっても大問題だった。
詩が何なのか分からないのに、どうやって詩を書けというのだろう。
大学生の私は島崎藤村の新体詩のような七五調の詩を書いたり、福永武彦らのマチネ・ポエティクのように押韻することによって自身の詩が詩であることを担保しようとした。
詩が詩である所以を形式に求めたのである。
藤村の新体詩、「初恋」は、現代的な抒情と古典的な七五調のリズムが見事に融和していて美しい。
福永武彦らのマチネ・ポエティクは日本語詩においても西洋詩のような脚韻を導入しようと試みた。この詩は「たに」「ただなかに」、「よる」「しる」が交互に韻を踏んでいる。
しかし日本語は語尾が必ずa、i、u、e、o、n、6つの音のいずれかで終わるため、韻が踏まれるのは珍しくなく、韻を踏んでも意識されにくいこともあり、この運動は失敗した(そう考えると現代のラッパーは大したものだ)。
私自身もこれらの形式によって自身の詩を詩たらしめようとする試みには失敗した。
形式主義に陥った自分の詩、
形ばかりに気を取られ、中身が空っぽな自分の詩にうんざりした。
こうして私も自由詩に挑戦するようになった。
詩とは何なのか分からないまま手探りで詩を書いて書いて書きまくった。
その中で、私は詩に3つの定義を与えた。
それをここで、今回含め4回の連載という形で掲載していきたいと思う。
詩に定義はない。
しかし詩と散文を分ける何かはある、はずである。
いま、詩を書いている人たちにとって
かつて詩人を夢見た一人の青年の
暫定的な詩の定義が参考になれば良いと思う。
そして私の屍を越えて、
本物の詩人にならんことを願う。
(ソフィー)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?